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ゆらぎ

可能な限り短く書こう。今日は心中のゆらぎと葛藤についてだ。先日仕事が終わってから久しぶりに友人を訪ねるため僕が住む街の北東に隣接する小さな町に向かった。その日の天候は曇り。夕刻、時折ワイパーを動かす様な、そんな細かく弱い雨が降ったり止んだりする天気で、夜と目的地が近づくほど、薄暗くなっていく、そんな時間帯。基本登りの山間部は進めば進むほど、靄だか水煙だかが時折現れては消える、そんな少し憂鬱とした一人車を走らせた時の話だ。

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自分の乗る車の中にはストリーミングで音楽が流れている。軽快なテンポの少し切ないメロディーのJpop。道中、その前後にはほとんど車の姿はなかった。僕はけしてスピード狂の類ではない。例え前後に車がいてもいなくても、必要以上にぐんぐん加速していく運転はしない。その日ももちろん客観的に見れば実際の運転の具合はそんな感じだったはずだ。

けれど僕の中では運転しながら、実際の速度と相反する様に速度に対する激しい葛藤があった様に思う。頭の中では何かを現実を介してしか見ることのできない理性がいつもの様に快適かつ安全な運転を楽しむために「そんなに速度を出す必要はない」と自然に呼びかけている。けれど一方で、アクセルを一定に保ちつつ、その目を通し視界の先を見つめるその肉体そのものというか、車という理性と恐怖を捨ててしまえるのであれば、アクセルを踏めば踏むほど速度を出すことができる機械とつながった部分が、どんどんと、他に遮る車のいないその山道を、その登りを進む速度をどんどん加速させるように衝動的に働きかけていた。

それは僕自身の平素の当たり前とする理性と、言ってみたら瞬間的でとても本能的な肉体の無意識の齟齬、そして乖離がどんどん進んでいく様な、そんな感覚だ。その何気ない日常的に繰り返す行為を介して、自分自身の中の揺らぎや何気ない行動を介し、僕は今、自分が抱えている見えない倫理や理論、合理性、謂わゆる見えざる何かに知らず知らずコントロールされている、そんな閉塞感を増す世界、それを起点とする日常の息苦しさ、ストレスといったものが、僕自身の有り様や行動規範に大きな変化をもたらしていることを、とても嫌だけれど、理解した、理解せざるを得ない様な気がした。

「僕は言いようもない、ネバネバとしたストレスを抱えている」そう、そうなのだきっと。それは自分自身になのか、日常の世界になのか、そうした環境による自分自身の変化に伴う必然的で必要とするストレスなのか、それはわからない。けれどどうやら僕はそれなりに強いストレス下にあった、あるようだ。

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途中目の前に一台、ゆっくりと走行する車が現れた。センターラインは追い越し可能な点線区間、そして登り基調の見通しの良い直線に対向車の影はない。その速度の違う車を目にしたときに、いつものなら多分アクセルを緩めるであろうところで、僕は直感的にアクセルを踏み込んだ。そして十分な車間、マージンをとり、比較的安全に、無理なく僕はゆっくりと走るその車を追い越した。ただそれだけのことだ。が、その自分自身の瞬時にとった行為はそれ以来、僕の中に何かを激しく訴え続けている。多分「抜く」「抜かない」という現実的な行為ではなく、多分それは何かの象徴としてそこにあり、それは何か自分自身が変化していく予兆の様にも感じられた。そして多分その、肉体的に身を委ねることはある意味、僕自身を激しく瞬間的に開放したのだと思う。

こんなゆらぎや葛藤も、ただ現実として客観的に記録されるのは「ほとんど車のない夕方、薄暗い山道で、行手に現れた遅い車を安全に追い越した」と、現実的にはただそれだけことだ。ただその行為の中に僕は自分自身に対する自分のまだ知らないかもしれない、自分への言いようもない不安を覚えた。しかし止められない、そんな風に、気づかないうちに僕らは変化して、変化していってしまうのかもしれない。それが良くても悪くても。

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