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私が思い描く理想の社会~「違い」に焦点を当てて~

久しぶりの投稿になってしまった。以前の投稿では「8月が始まった」と書いたが、もう8月下旬になってしまったようだ。

発達障害、という言葉をよく見かけるようになった。トレンド入りもしたらしい。毎日発達障害の子どもたちと関わっている私が思うことを今日は書いてみようと思う。

違いを認め、受け入れ、受け流し、違うことが当たり前の社会に

私は子どもの時から「みんなと一緒」が良かった。みんなと違ったら仲間外れにされたり嫌われたりするから。みんなと一緒だったら安心するから。今はもちろん違う。ただ、やはり自分が受けてきた教育、両親や祖母からの教え、自分を取り巻く環境から、「違うこと」や「変わること」はネガティブ捉えられることがほとんどだった。今もそう。場所のせいにしたくはないが、私の地元はその傾向が強い方だと思う。そしてそのネガティブな考えが当たり前になってしまっていたんだ、とここ数年で身に染みて感じていた。

だから私はずっと苦しかった。子どもの時から薄々感じていた、周りとの違いを。仲のいい子たち、周りの子たちとの「かわいい」が違う。笑いのツボが違う…。でもみんなに嫌われたくない、だから自分の意見は言わず周りに合わせていた私。したいこともできない、言いたいことも言えない、それはしんどいけれど、嫌われるよりはマシ。周りの評価が一番だった私は余計苦しかった。ただ、私ははたから見ると所謂「優等生」であったと思うし、勉強もしていたし(勉強一番!の両親だったのですることが当たり前だったのもある)運動も好きだった(今はWiiを数時間やっただけで筋肉痛を1週間引きずるけれど)。周りから見ると「普通」の子だったと思うし、そう思ってほしかった。

自分で稼いだお金で大好きな旅に出掛けたことや、今まで出逢ったたくさんの素敵な人たちのおかげで、自分自身の中の「違い」の捉え方が変わってきたし、誇りに思えるようにもなった。自分の考えが変わっていくうちに、「違いが認められたらいいのに」と思うようになった。

自分と好きなものが違う、自分と声の高さが違う、自分と肌の色が違う、自分と遊び方が違う、自分と性格が違う、自分と目の色が違う…
「発達障害」に限らず、「違い」を認め、受け入れ、受け入れることができなかったら受け流し、もはや「違う」という言葉が使われなくなるくらい違うことが当たり前な世の中になってほしい、と思ったりしている。私の理想であり、とても難しいことなのは重々承知だ。そんなことがすぐできたら世界平和だってすぐ実現できるのではないかと思ってしまう。難しいとは分かっているが、だからと言って何も行動しないわけにはいかない。微力ではあるが無力ではない、はずなので、まずは私の職場の子どもたちに向けて、「違うことの素晴らしさ」や「違って当たり前」であることを少しずつ伝えていきたい。

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