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明けない梅雨空のハイビスカス

紫陽花は咲かなかったけれど、わが家の鉢植えのハイビスカスは、今年調子がよく、何度か咲いては花を落とすを繰り返しながら成長を続けている。このハイビスカスは、一昨年、お隣さんが分けてくれたもの。その年は一度だけ咲いて、去年はまったく咲く気配がなかった。今年になって、ハイビスカスがずいぶんと水が好きであることを知り、毎日せっせと水をあげていたら、全体図は貧弱ではあるものの、この梅雨空の下、何度か鮮やかな黄色い花を見せてくれている。

しかし、花の命は短くて、とはよく言ったもので、このハイビスカスという花の命の短さには、ちょっとびっくりする。

咲いた!かと思えば、

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10分後にはもうクターッと萎れて、復活したように見える瞬間もあるけれど、翌日には萎んで、やがて花弁が丸ごと落ちてしまう。水に濡れた葉巻みたいになった花の死骸を眺めていると、なんともやるせない。

仕事は通常モードに戻った、のだけれども

緊急事態宣言が解除され、滞っていた取材ものが一気に解禁となり、のんびりベイクばかりしていたあの頃が嘘のように忙しい日々がやってきた。このところはまた濁流に飲み込まれているような気分で、毎日を過ごしている。

フリーランスとしては仕事が忙しいのはありがたいことではあるのだけど、仕事、家事、友人との付き合いなど、器用にやっていたつもりだったコロナ禍以前のようには、うまくこなせていない気がする。いや、気のせいではなくて、本当に、すごくアンバランスになってしまった気分なのである。このムズムズした感覚はなんだろう。

友人たちと時折、レストランへ行けるようには、なった。けれど、以前のように開放的に楽しむことができない。やっぱり飛沫感染はお互いに気になるし、人の目も気になる。先日はステーキガストにておばさんトークで盛り上がっていたら、お店の人に注意を受けた。家でひたすらリモートワークしている夫だって(私のことが怖いから)何も言わないけれど、程々にしておけよと思っているに違いない。

世の中セールのシーズンだから、モールへ行って洋服を見たりして、少し買ってみたりもしたけれど、マスクしてるんじゃあ、盛り下がる。試着室の鏡を見て、どんよりした。

「マスクして、顔もよくわかんないのに、おしゃれする必要あるんだろうか」

おばさんは、そんな風に思ってしまうのだ。いかんよねえ。

一筋の陽光をくれた西伊豆のグリーン

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そんな中、久しぶりに取材で遠出をした。静岡市内から西伊豆へ下り、一泊。旅に飢えていたものだから、本当に嬉しかった。

西伊豆にはひなびた廃屋がたくさんあって、見応え抜群。宿泊した宿のそばにも、廃屋と思わしきいい感じの古いビルがあった。

よく見ると、それは廃屋ではなく、シャビーなだけだった。元は何か工場だったのか、長屋のような集合住宅だったのか、用途は知れなかったが、奥行きのある、大きなビル。駐車場に面した窓の一部が開かれて、桟に小さな花が4、5つ、寄せて置いてあり、その周りは貝殻で飾り付けてあった。

なんてかわいいんだろう。どんな人の仕業だろう。

覗き込んでみたけれど、人の気配はない。ふと上を見上げると、屋上に、小さな社があった。

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なかなか梅雨が明けないこの時期に、こんな発見をするなんて、まるで『天気の子』のような。

晴れない気持ちの中に、少しだけ陽射しが降り注いだような、ささやかでも嬉しい出来事だった。

・・・晴れない気持ち。そうなのだ。

仕事とはいえ、県をまたいで遠出をしていることに少なからず罪悪感がつきまとう。スマホが震えて、見ればYahoo!ニュースが今日の感染者数を知らせてくる。またステイホームを強いられる日々がやってくるのだろうか。離れて暮らす家族と会えないお盆?  子どもたちが自由に遊べない夏になるのか。

そう思うと、胸の中にモクモクと雨雲がわき上がる。

ステイホーム期間は、「辛抱すればまたいつか元に戻る」のだと思っていた。しかしどうやら、当分はそういうわけにもいかないことを、私たちは徐々に受け入れはじめている。モヤモヤしながら。

「元に戻る」の「元」とは、さて。

もはやマスクなしでの外出は非国民扱い。コホンと咳払いをしただけで睨みつけられる電車内。今、映画やテレビドラマを見ていて感じるのは、出演者たちが「マスクしてないじゃん」という違和感だ。恋人同士が抱き合ったりキスをしているシーンなど見た日には、別の意味の「濃厚接触」を意識する。ああ、例えば男女が刹那的に恋に落ちることができたのは、2019年までだったか、などと考えてしまう。

コロナ以前、コロナ後という意識の刷り込みが、自身にもすっかり出来上がってしまっているではないか。ショック!

価値観の変化ってやつにオロオロする

100年前のスペイン風邪流行のとき、日本人の感覚にはどんな変化があったのだろう。スペイン風邪以前・以後というような、何か価値観の変化はあっただろうか。当時の医学の進歩の速度とそれは、どのような関連性があるだろう。最近、そんなことを考える。

感染リスクを恐れて、会いたい人に会えない、行きたい場所に行けないという時間は、果たしてどれくらい続くのか、考えるとゾッとする。ひょっとしたら、あっという間に終わるかもしれないし、ずっと続くかもしれない。このまま続くとしたら、ステイホームやマスク着用は常識となって、定着していくのだろう。

引き比べるのは少し違うかもしれないけれど、昭和から現在にかけて、私たちはたくさんの価値観の変化を目の当たりにしてきた。例えばタバコだ。成人男性の7割がタバコを吸い、「今日も元気だ、タバコがうまい」なんてキャッチコピーが流行った時代があった。あれから60年。当時誰が今の世界を想像しただろう。筒井康隆先生くらいか。

ステイホーム中に昔の少女漫画を読み直すブームにハマった友人から、『クローバー』を借りて、久しぶりに読んでみたが、ここにも過去と現在との価値観の変化を見出して、仰天した。制服を着てお茶汲み仕事に精を出すOL。タバコをくゆらせる年上のホテルマン彼氏。デートは当然彼氏の奢り。乗ってるクルマはBMW。etc.etc...

「懐かしい」を通り越して、「ふ、古!!!」とのけぞるばかり。私もすっかりおばさんだが、今どきの20代がこんな価値観で動いてはいないことくらいはわかる。私たちが乃木希典の殉職をリアルに理解できないのと同じように、きっとこれからの若い人たちも、『クローバー』に描かれたような世界観は過去の価値観として、距離を持って眺められるに違いない。

いいとか悪いとかそういう問題ではなくて、世間の常識も、恋愛も、ステイタスも、ジェンダーも、何もかも、変わり続けているのだ。それは当たり前のことであって。これからも、私の意思とは何の関係もなく、変わり続けていくのだ。

ああ、コロナ禍において、さらなる価値観の目まぐるしい変化に戸惑っている、まさにこの状態こそが、なかなか明けない梅雨空のようにじめっとした気分を長引かせているのだな、と、家中に発生するカビをこすり落としながら考えていた。

呑気に海外へ行ったり、友達と「密」で飲んだり騒いだりしていた時代があったけねえ、なんて、完全にマスク着用を受け入れる未来の私は、2019年以前をどう客観視するのだろうか。ブルブル。

だけど、どう対応していくか、この時代をうまく乗り切ってエンジョイするか、それを考えて生きた方がいい。よね、きっと。












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