街宣車と砲弾。深夜徘徊①

数週間ばかりの命を削る時間と少しばかりの体調不良を抜け出して、また深夜に徘徊している。徘徊という文字をスマートフォンで入力すると毎回出てくる拝火教の字。ぼくの友達にもとりあえずジッポライターの火をつけておきたい癖を所持してる人間がいる。人は火を見て、郷愁や懐古、全能感にひたる。最後だけ毛色の違う単語だが、むしろ最後の全能感という要素が大きい気がする。破壊の象徴たる火を掌握してる感覚はある種、神のような存在へのつながりを知覚するものなのだろうか。

どうしてまた家から出てきたのか。現実逃避のはけ口なのか。ここで何かを得ようとしているのか。今のぼくを構成するものでぼくの全てを理解することは難しいと思う。歩きながら写真を撮っているが、いま見るとカメラを斜めに構えた構図のものが多い。未だに現実を斜視しているのか。疑問ばかり降り積もる。この深夜徘徊は何につながるのか。また疑問だ。

まだ20年しか生きていない。疑問ばかり浮かんでくるのは当たり前なのかもしれないし、頭が回らないのかむしろ回りすぎているのか。

歩いていると環境音だけが耳に入る。イヤホンをして音楽を聴きながらだけど。ぼくの脳を含めてノイズキャンセリングには不具合があるようで。無作為に耳に入る人の営みの音を聴くと笑い出したくなる。夜の街はまだ知らない顔を持っていた。
今夜の思考の行く先はまだわからないが、指がかじかんで字が満足に入力できなくなってきたので、これ以降は自分の頭の中だけで考えることとする。もうじき三宮だ。