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「集」から「個」を活かす魔法(5/5)

各国それぞれの文化によって地域の課題にそった個人の活かし方「個人主義/集団主義」が根付いているのではないかとわたしは思います。同じ言葉を使っていても各国個別の意味がある(共通の定義が存在しない)ということです。

地域に根づいた意思共有のプロセスだと考えれば、他国でうまくいってるからといって日本にそのまま持ってきても効果がないという視点も明確になります。そのプロセスにあった生活の礎がないからです。返って元々あった適した習慣を打ち消すことになるかもしれません。

実践的な知識を重んじ国の外に目を向けよ!とグローバル化の礎を築いた福沢諭吉でさえこんな忠告を残しています。

国にはそれぞれ長い間に培われた習慣や物の考え方があるから、いくら良いと思っても、外国から何かを取り入れる時には、よく考えてから実行することが必要だ。

口を開けば欧米を賞賛して、日本を改革すべきだと唱える人間がいるが、礼賛一辺倒であってはならない。

日本には良いところもあれば悪いところもある。それと同じように外国にも、良いところもあれば悪いところもある。また、古いものがすべてダメで、新しいものがすべてよいということもありえない。
福沢諭吉

つまり、よく耳にする「日本は集団主義だからダメ」という言葉の背景に何を見ているかということが本質です。集団主義が問題だと言うとき、その主義とは何を指していて、その背景にはどのような問題が潜んでいるといっているのか、その洞察こそが欠かせないと思うのです。

日本で理想として語られる「個人主義」の語感は、欧米でのそれと比べると少し意味合いが軽い気がしています。「個人の自由が重んじられるべき」「個人の才能を活かすべき」という主張そのものは正論ですが、しばしば自由を享受するための「責任」が語られていません。才能を活かすためのディベートや目標管理などの地盤があることが語られていません。更には背景にある努力や負の側面の視点がまったく抜け落ちています。

日本では個人の裁量に任されているのです。「恥の文化」などと表現されることもありますが、己を律すること自律的に行動することで、自由の責任としているのです。これは少し欧米の考え方とは違うように思います。

欧米的な「責任」を語らず、日本的な「自律」も否定した後に残る「個人主義」とはいったいどんなものなのか?想像するに、これはどこか「自分主義(Selfish)」の語感に近いような気すらしてしまいます。

社会には、めんどくさい上司や人間関係があるのは確かです。ですが、それらの面倒事を解決するのに、魔法の近道などありません。ウワベだけの「個人主義」を主張することで、返ってどこか自分勝手(Selfish)な社会に近づいてませんか?

それがきっと冒頭のわたしのモヤモヤです。

今の現実や環境への不満はめっちゃわかる!でも、向かう先は?近道せずに積み上げてきた生活を見直し再構築しなきゃだと思うのです。自分や自分の子供だけ才能を活かせる都合のいい魔法はありません。それは個人主義ではなく、むしろ自分勝手な自分主義です。ワンチーム、思いやり、おもてなし、わびさび、恥の文化、いいじゃないですか。そんな繋がりをもっと活かすために新しい魔法を覚える今持っている魔力の鍛錬をしなければと思うのです。

おしまい

|▶ 5|おまけ



参考




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