好きモヤモヤの分解とお片付け

とても好きだったけど、わたしに価値を感じていることを、わたしに対する親愛の情のようなものを、示してもらえない、と感じるある人から距離を取ろうとしている。

趣味がよく能力に魅力を感じ惹かれてやまなかったその人を、これまでに二度見限ろうとして、二度諦めきれずに思い直して、三度目の今度はもうよそうと決めてすっぱり視界から消した。

のだが。

流石の今回はうまくいって、もうお見かけしても視覚情報の一部でしかないくらいになってきていた今、向こうから「ハイタッチのような」アクションがあって、リアクションにつまっている。

これは感情と理性と事象が一緒くたになってごちゃごちゃしているから起こることなので、ちょっと分解して整頓してみようと思う。

リアクション凡例としては大きく三つ。

1 ただハイタッチを返す
2 スルーする
3 今ちょうどその人がオープンにしているポジティブなトピックスがあるので、それについて言及する

1はリアクションに見えて実質はスルー (事象って面白いよね……)
2は敵意または関係を断つという意思表示
3は社会性の発揮または好意の表示

とすると、選ぶべきは3。

社会性を発揮することは悪いことではない。というより社会にありてはそうすることが往々にして望ましい。

が。
積極的好意の表示はもうしなくていい、気がする。気がしてならぬ。
これもマインドブロックなのだろうか。
分解して整頓してみよう。

相手を好きだと思うにも種類がある。
関係構築を期待するものとそうでないもの、「ガチ恋のファン」と「応援者」みたいな。

わたしはおたくなので、熱狂や信望や敬愛を以て、ただ好きだと表現していられることは、本当にしあわせなことだと知っている。
それを学んできたからこそ、期待や欲を込めて好きになる人はごく少数にしてきたつもり。

件の方を、そのごく少数に該当すると見誤った。
だから以前のわたしはしんどかった。

人を好きになるのはよいことだけど、コントロールできない「他人の心情」に固執することは継続するべき事象ではない。

繋がる先の見えない糸電話。地面に深く空いた穴。
途中で糸が切れているかも、この糸の向こうにはコップはついていないかも。それを承知で呼びかけ続けられるのなら構わない。
穴の先の地盤は緩く、水はただ広く染み込んでいくだけで、溜まって光る水面に出会えはしないかも。それを承知で注ぎ続けるのならいいと思う。
語るために働かせた思考も水を汲むのに使った筋肉も自分のものだし。

でも、求めるものがただ「成果」で、それが自身の努力でコントロールできるものでないのなら、それは徐々に「人を好きになる」ことから「自分の行いに空虚を感じ、相手に不満を抱くこと」に変わっていく。

やってて自分が楽しくなくまた納得のいく成果を得られないこと。
片想いとはこれではないか。
だとしたら、続ける理由は何もない。

「その人」が魅力的で才気溢れる方であることは何も変わらない。
ただ、「この人はわたしの特別な相手ではない」とわたしが理解すればいい話。
特別な相手ではない、才気溢れる魅力的な人。
称賛し、応援しよう。したいと思えば、その時に。

……と片付けていくと、すんなりと楽になれて、人に言語があってよかったなあとしみじみ思うのはこういうときだ。
日本語と、それをわたしに授けてくれた数多の人に、感謝する。

昨今よく見聞きする言葉で言うと、「モヤモヤした」。
ので、分解して整頓したら、すっきりしました。

こうして「片想いを止す」ことは、わたしにとって重要なライフハックの一つであるなと思う。
ごく少数の両想いの人に、好きだと伝えてじゃれつくのと、同じくらいに。



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