キルケゴール 絶望と可能の淵

絶望の方程式

彼の哲学は「レギーネ体験」「コルサール事件」が影を落とす

『死にいたる病』は、絶望の書である。

①絶望して自己をもっていると意識していない場合:絶望的でもそれがわかっていない。絶望度が最低レベルで、いつの間に進行する。

②絶望して自己でありたくないと思う:「永遠性」に絶望。物質的なものをなくし、その状況が神のような永遠性で救われなかったことへの絶望。

③絶望して自己でありたいと思う:自分の意識が世界を支配しうると思いこむ(例:リア王)

絶望下では人は死ねない。絶望の苦悩は死ぬこともできない。

自己に絶望→自己を食い尽くそうとする(死)→食いつくせない(死ねない)人は内部の理想をもち、それが死を留まらせる。理想があるから絶望する。

『あれか、これか』

①美的実存:美や快楽を基準「あれもこれも」

②倫理的実存:倫理的に生きよう「あれか、これか」

③宗教的実存:自己を神に預ける

人は限界にぶつかると次の段階へと進む。

懺悔→神の受け入れ→神と対峙する単独者としての自分

現代は、無感動、嫉妬の塊、大衆の客観性に判断をゆだねる。故に単独者としての自己が崩壊。

関係について

『人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。』

この難解な文章の肝は、主語と述語は「人間とは関係である」。人間には対立軸で動いている。自由と秩序、偶然と必然、無限と有限、自己と他者など。。。このような対立に「関係」すると自己が生まれる。しかし、この関係は自分が作ったものではない。必然も自由もあらかじめ、そこにある。

「関係が関係自身に関係する」と自己が生まれる。でも、その新しい関係、「関係が関係自身に関係する」こと自体、自分が作ったものではない。誰かが設定したと考えるしかない。では誰?それは「神」だろう。だから「関係が関係自身に関係する」とは神に関係するという構造になるわけ。

例えば個性などは人との関係性からのみ生まれる。個性や、知性や、素質が「ある」と思っている。だからまだ「開花」してないと思いこむ。それを見つけて開花させるのが、くだらない自己啓発や自己実現本。何も「ない」のにあると思う愚かさ。自分の中にあるはずだ、オンリーワンを目指せ!のような妄言をぶち壊すのが、キルケゴール。

人は関係の中で生きているが、日頃は意識しない。もっとも関係を意識するのは三角関係。例えばAの関係をBに言うことでAとの関係の濃さを示す。だからややこしい。どのような言動も、Bとの関係に関係してしまう。結局、どちらかを切るしかないが、未練がありだらだら継続。しかし、池波正太郎の三角関係克服は秀逸。

まとめ

人間は、美学的人間、倫理的人間、宗教的人間の三種類が内部で衝突する。それはあたかも踊り子の振り付けのようなもの。同じ登場人物が、他の人物に中に迷い込みさらに他の人物が、信仰や決断を通じて選択した「賭け」が引き起こすざわめきの中で静かに声をあげている。キルケゴールは、人間の諸局面を活性化させた哲人である。

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