日記とブログ。

 人の行動習慣はそれほど変わらないという前提のもと、一昔前の習慣がテクノロジーの進歩によってこんなものに置き換わった、という話はよくあるものです。あるいは、人の習慣はそう変わらないからサービスや事業を考える時には既存の習慣をベースに考えることが一つのセオリーであると言われたりもします。しかし、置き換わった先のサービスやシステムが、本当に置き換わる前のそれと同じ影響を私たちに及ぼしているのかは、疑ってみる必要もあるのかもしれません。

 例えばブログは、一昔前の日記の置き換えであると思います。日々の出来事を自分なりの言葉で紙に記録するという行為が、インターネットの登場によって、web上に記録しさらには公開するという行為に置き換わりました。ブログはインターネットの登場前から日記を書くという習慣が一定程度あったために、成立したものであると考えられます。日記を書くという習慣がなかったのに、ネットが登場したからといっていきなり日々の出来事をブログに書き始めるとは考えにくいからです。
 しかし、自分だけしか見られなかった日記と、不特定多数が見られるブログで、書く内容や自分自身に及ぼす影響は同じなのでしょうか。日記では純粋にこころに浮かぶままの内容を書きながら、その日の出来事を反芻し、整理することにつながっていたのかもしれません。それに対して、不特定多数に見られるブログでは、そこまで純粋に自分のことは書けないように思います。そうなると、自分のこころに及ぼす影響は違ってくるように思えます。閲覧数や反応もどうしても気になり始めます。

 似たような話として、15年ほど前に妻夫木聡と柴咲コウが主演する『オレンジデイズ』というドラマがありました。大学を舞台にしたドラマだったのですが、当時高校生だった私にとっては、大学生とはこういうものかと期待に胸を膨らませる内容だったような気がします。
 そのドラマには「オレンジノート」というものが出てきていました。大学の休憩スペースのようなところに、サークルなり仲のいい友達同士なりの共有ノート(紙)が置かれており、そこに各々が思い思いに書き込みをしていくというものでした。書き込むのはグループに属する人になるのですが、休憩スペースに置きっぱなしであるため、見るのは誰でもできてしまいます。なんなら、全然関係ない人でも書き込むことができてしまいます。これはその少し後に流行したミクシィや、大学ごとに区切られていた時代のFacebookのアナログ版
であったのだと思い起こされます。なるほど、やはり既存の習慣があって初めて新しいサービスは生まれるように思えます。
 しかしここでも、既存の習慣の置き換えとは言えても、個人に及ぼす影響は本当に同じであったのかという疑問は生じます。誰が見るか分からないけれども、基本的にはごく限られた人たちに向けて書く、そしてグループの人たちがほぼ確実に目を通してくれているというのが、「オレンジノート」であったのではないかと想像されます。それに対して、表面的な行為は変わらないけれどもネットへの置き換え後は、書く方にとっては閲覧者が増え、見る方にとっては閲覧する対象やコンテンツが増えました。書く時に浮かべる閲覧者が変わることで書くことから得られることが変わり、読む深さなどが変わることで読むことから得られることが変わっていったのではないでしょうか。当初は招待した友達に限定されていたミクシィや大学ごとに区切られていたFacebookでありましたが、今ではオープンなSNSになっています。

 ここまでオープンに不特定多数とつながるように変化してきたということは、人は元々そういうことを求めていて、テクノロジーの進歩によってそれが可能になったと見ることもできます。たしかに私たちは、他者とつながることやコミュニケーションをすることは強く求めるように思います。しかしながら、この変化を見る時の登場人物は利用者である私たちだけではないという視点も、重要なのではないかと思います。そこにはシステム提供者が介在しているのです。
 京都大学教授・臨床心理学者の河合俊雄氏は、近代の時間や経済の合理性を優先しすぎる社会に問題提起をしている『モモ』の解説書の中で、次のようなことを言っています[1,kindle468]。
「近代において時間の節約をして得をするのは、個人ではなくシステムの側だということです。私たちは時間が節約できて得をしたと思っていても、結局は企業の利益や国家の方針などシステムのために利用されているのです。」
 さらに、より現代的な個人とシステムの関係について、GAFA(Google/Amazon/Facebook/Apple)と呼ばれるプラットフォーマーを例に挙げて次のように言っています[1,kindle468]。
「ユーザーは無料で提供される便利なツールを使えるようになり、得をしていると思いがちですが、その使用履歴はデータとしてプラットフォーマー側にわたり、企業は莫大な利益を得ています。そして、蓄積されたデータをもとに新しいサービスや製品がつくられ、私たちはそれを与えられたり買わされたりしているのです。」
 私たちの行為は、必ずしも自分が望んだからというだけではなく、システム側に動かされている側面もあると考えられるということです。

 もちろん現代でも全てがブログやSNSのようにオープンなものに置き換わったわけではなく、日記帳やデバイスのノートツール上に日記を書いたり、グループLINEなどでクローズドなコミュニケーションは行われています。しかしながら、傾向として不特定多数に向けたオープンな方向へ話すことや、オープンなところから受け取ることが増えていることは確かなのではないでしょうか。何か吐露したいことや表現してみたいことが出てきた時、不特定多数とつながるプラットフォーム的なツールが、まずは頭に浮かぶのではないかと思います。そのようなサービスが適切な場合もありますが、必ずしもそうではなく、自分だけや特定の少数と共有していた方が充足を得られることもあるはずです。自分だけと共有するから自分のものになったり、自分とごく限られた人と共有するから自分を含めた仲間内での出来事になったりするように思います。不特定多数と共有したそれは、自分のものにはなっていないのかもしれません。

 アナログからデジタルへ、一様に置き換えが進んでいるように思えますが、実は私たちの内に及ぼされている影響は違うのではないかと思い、今回このようなことを書いてみました。ネットに常時つながっているシステムの影響力が強い現代だからこそ、意識的にシステムから離れてみて、自分の充足度の変化をみてみるというのも有意義なのではないかと思いました。自分のために時間を使えているのかは、現代においてはより意識的になる必要があることなのかもしれません。

〈参考図書〉
1.河合俊雄著『NHK100分de名著 モモ』(NHK出版)

(吉田)

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人の根本を見つめながら明日を考える、コンテンツや場をつくっています。生物の生態系・古代の生活・工学デザインなど、多様な専門の先生を訪ねて作る短編本や、休日の読書会など。https://liber.community/

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