今週のこぼれ話。考えるとはもう少しオープンなものなのかも。

 先週『弱い一歩』を出しまして、いつもなら次のテーマを考え始めている頃なのですが、少し作り方を変えようと思っており一時停止中です。いつもは、1冊1冊違うテーマでポンポンポンと出していくのですが、それが少しせわしない感じもしていました。これについて考えたら次はこれ、ということが1ヶ月おきくらいに来るので、あまり消化しきれていないような気もしていました。なのでまだ思案中ですが、半年くらいの大きな枠組みを一つ決めて、そのシリーズで短編本を作っていければ、ゆったりと一つのことを考えられるのではないかと思ったりしています。例えば、ライフスタイル、学ぶ・考える、コミュニケーション、などの枠組みや大きなテーマです。まだまだ思案中ですが、よりよい考える時間をつくっていければと思っています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、今日は『弱い一歩』で紹介できなかった、ある哲学者の話について書いてみたいと思います。

 哲学者といえば、ものすごく自分で考えているイメージがあります。現場で起きている具体的な問題に対応しているというよりも、抽象的な問題を自ら抱えて頭の中で「あーでもないこーでもない」と考えているイメージです。浮かんだ考えに自分で批判的な意見をぶつけ、常識を覆すような論理を築き上げていくという印象を持っていました。このような姿からは、やはり「自分で考えている人」というイメージを抱いてしまいます。

 しかし、実際には、そこまで強く「自分で考えている」と言えるわけでもないのかもしれません。

 論理学や哲学の分かりやすい入門書を多く出している哲学者の野矢茂樹氏は、著作『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)の中で、「自分の頭で考える」ことに対する違和感を表しています。自分の頭で考えるとは、二つの点で正しくないと言うのです。ここでは、引用して紹介します。

 まずは一つ目。
 「考えるということは、実は頭とか脳でやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手にもって考えたりする。」

 次に二つ目。
 「それから、自分ひとりで考えるものでもない。たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くのひとたちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えることにとってものすごくだいじなことが、ひととの出会いにある。」

 一つ目はモノと一緒に考えているということをイメージさせます。何かを手に取って振ってみたり当てがってみたりしながら、使い道などを考えていったり。紙に書くことで次から次へと考えが浮かんだり。夕ご飯に悩んでいたところ、スーパーに行って並ぶ食材を見た途端にメニューが浮かんだり。そういうことを言っているのではないかと思います。

 二つ目は議論するというよりも、もう少しライトなことを言っているのではないかと思います。日頃の何気ない会話や、あるいは自然と入ってくる周りの会話や、雑踏など。明確に向き合っている人でもあり、時には周りに自然と居るような人とのゆるい関わり合いのことも言っているのではないかと思いました。

 考えるとは、イメージしているものよりも、閉じたものではなくもう少し開いたものなのかもしれません。なかなか人に会ったり雑踏に飛び込んだりすることが難しいご時世ですが、なにかそういう機会を積極的につくっていきたくなりました。

(吉田)

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人の根本から明日を考える、コンテンツや場をつくっています。生物の生態系・古代の生活・工学デザインなど、多様な専門の先生を訪ねて作る短編本や、休日の読書会など。https://liber.community/

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