なぜそうまとめられるのだろう。 ー認識と実際
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なぜそうまとめられるのだろう。 ー認識と実際

(文量:新書の約10ページ分、約5000字)

 なぜそこまできれいにまとめられるのだろうと不思議に思ったことはないでしょうか。
 文化や思想が東洋と西洋に分けられたり、人間の本性が利己的か利他的かで議論されたり。ほかにも、テストで点数がとれる科目をみて文系と理系に分けられたり、部活も運動部と文化部に分けられたり。分類されるだけならまだしも、それらは進学する学部や専門にまで影響したり、「〇〇っぽさ」という印象を与えたりもします。
 分類だけの話ではありません。物体の落下や衝突などの運動が、ma=Fというシンプルな式で表されたり。二体間に働く万有引力と静電気力を計算する式が、それぞれG×m1×m2÷r^2とk×q1×q2÷r^2とでものすごく似たかたちをしていたり(Gとkは係数、m1m2は二体の重さ、q1q2は二体の電荷、rは二体間の距離)。

 人の行いや性質、自然現象まで、こうもシンプルにまとめられると、世界はシンプルにできていると思ってしまいます。しかし本当にそうでしょうか。人間の本性が仮に利己的だと結論づけられても、とっさに他人のためになることをしたりもします。物体の落下速度は質量に依存しないとされても、同じ材質の鉄球ならば軽いものよりも重いものの方が速く落下します。分類や理論がどんなにきれいにまとめられて、それを理解したとしても、周りで起きている事は変わらず複雑です。
 物事をどんなにシンプルに認識できたとしても、それは認識でしかなく、実際は変わらず複雑なままです。認識と実際とを自分のなかで分けておかないと、認識に囚われて身動きがとれなくなったり、おかしなことを見落としてしまったりするように思えるのです。


エネルギーを注いでまで乱雑なものをシンプルに

 乱雑なものをシンプルにするためにはエネルギーを必要とします。そして人間はそれを積極的に行ってきたように思います。
 地球上に無数にいる生き物を、界・門・綱・目・科・属・種と分類したり、進化の系譜を築き上げたりすることは、ただ地球上に居る・居た生き物を体系的に整理していくという点で、乱雑なものをシンプルにする行為であるといえます。これには大きな労力がかかっていることはまちがいないでしょう。
 人間も含めた生き物に歴史があることを見出し、生き物同士の関係性の見方に大きな影響を与えたと考えられるチャールズ・ダーウィンは、おそらく大変なエネルギーを理論の確立に費やしていました。たとえば、ミミズによって地面がかきまわされていることを証明するために、岩に微細なメモリをつけて何十年も待ちました[1,kindle238]。ミミズは地面に顔を突っ込んで土を食べお尻から糞を排泄することで、地面を沈めると同時に新たな土を積み上げていくのです。ダーウィンはこれを確かめるためにメモリのついた石を設置しました。1年で約0.6cm沈んだといいます。人間が農業のために土を耕し始めるよりずっと前から、ミミズが土を耕していたことが分かったのです。『種の起源』はまだ読んだことがありませんが、進化論もこのような精緻で地道な観察によって築かれていったのではないかと想像しています。
 さきに挙げたような自然現象を表す方程式も、ニュートンなどの発案者は、幾重にもわたる思考や実験を行い、多くの反論に応えながら理論を確立していったはずです。人間に対する利己・利他や善・悪などの理解も、見た目からして人それぞれ違うことを知りながらも、普遍的な特性を見出そうとこれまで議論されてきました。世界の誕生が物語で説明されるのも、どうしても抱いてしまう興味関心を、一つの流れのなかに収めてみようとする試みに感じられます。

 人間はなぜ、大変なエネルギーを注いでまで、物事や現象をシンプルなものに集約させようとするのでしょうか。乱雑なまま放っておくことができないでしょうか。もちろん、誰もがさきに挙げたような理論や概念を打ち立てるわけではありません。しかし、他者に対して「こういう人」という自分なりの認識をもったり、既にある分類やレッテルを好んで使うはずです。ヒトは、周りにあるものが整理されていた方が、居心地がいいようなのです。

思考の癖

 ヒトが周りの物事や現象をシンプルにまとめたがる、言い換えると、分類したり法則や因果を見出したりしたがるのには、心や脳の特性が関わっているのかもしれません。

 縄文土器の複雑な文様や弥生時代のシャープな仕上がり、巨大建造物・古墳の放つ威容など、古代につくられたモノの装飾の面から歴史を解き明かしている考古学者の松木武彦氏は、『美の考古学』のなかで次のように言っています[2,kindle240]。

それらと並んで心理的機能を発揮するのは、直線や四角形、規則的なパターンなど、「よい形」の図形である。これはみずからをとりまく複雑な万象のなかに規則や構造を見いだし、それに沿って物事や現象をカテゴリーに切り分けて整理しようとする脳の働きによる。つまり、多様な事象の一つ一つに個別に応じていたのではとても間に合わないので、似たことは一つのカテゴリーに縮減して対処するという効率的な働き方ができるように、ヒトの脳は進化してきたのである。このような情報の縮減ができたときに、脳は報酬として快楽をえられるようにできている。「よい形」は、縮減された本質的な形として心を引きつけるのだ。

この著書では、古代のモノに施されたヒトを惹きつける装飾が、ヒトの心にどのように作用して、生活や文化に対してどのように影響していたのかが考え進められています。松木氏は、そのようなヒトの心に働きかける装飾を「美」と呼んでいます。引用の冒頭の「それら」とは、輝きや光彩を放つモノ、見上げるような高所までそびえ立ちおそれや威容を感じさせるモノなど、ヒトの心に働きかける美の特徴を指しています。
 引用で紹介した「よい形」は、情報量として少ない、省エネで脳が認識できる形であるといえます。折れ曲がった線であれば、どこでどの程度折れ曲がっているのかという情報が、折れ曲がっている箇所分だけ存在することになります。記憶するのが大変です。それに対して直線であれば、情報としては非常にシンプルです。脳にスッキリと収納できるため、脳はそのような情報の発見に対して快楽物質を出すのです。主従が逆転するような話ですが、ヒトは脳からの快楽物質を求めて、シンプルなモノを好んだり、なるべくシンプルに情報を解釈したりするように心がけるようになるでしょう。
 これはなにもモノの形だけに言えることではないと考えられます。情報量が少ない方がいいのであれば、物事や現象の理解や認識も、なるべくシンプルにしていった方がいいはずです。たとえ多様な犬がいたとしても共通の特徴をいくつか取り上げてイヌという分類で括ったり、さまざまな物体の運動をma=Fというシンプルな式で説明できるように理論化したりした方が脳が喜ぶのです。
 もちろん、これらの分類や理論が誤りだと言いたいのではありません。ここで言いたいことは、世界にある物事や現象がシンプルな性質をもっているというよりも、人間がシンプルさを求めて分類や法則を見出していっているのではないかということです。すこし踏み込んで言えば、シンプルにみえるのは人間の好みの結果であって、人間のフィルターを通さなければ、新たな理論や認識が生まれようとも、世界は乱雑なまま変わらずに存在し続けているのです。今用いられている分類や理論には、そのときの社会背景や、そのときにある理論や知見に左右されたものが少なくない割合で含まれることでしょう。世界がそうあったのではなく人間がそう認識したという意味で、真理や摂理などとは決して言えないものが社会に数多く存在していると考えられるのではないでしょうか。

 ほかにも脳の性質として、ヒトは元々は3くらいの数までしか認識できないのではないかとも考えられています[3,kindle2179]。言語のなかに数の概念をもたないある部族では、1・2・3くらいまでは区別がついても、4以降はあいまいな違いとしか認識できないというのです。その部族を被験者として、肩を叩いた数の分だけ棒を並べてもらう実験をしたとき、1,2回では正確に棒を並べられても、4回となると並べられる棒が3本になったり5本になったりと、あいまいになっていったといいます。
 今の私たちは、3どころか、300でも30,000,000でも認識することができます。しかしそれは、数字があり、それを見たり聞いたりして記憶することで認識しているのです。元々は、そこまで多くの数を認識することはできないのでしょう。言葉が発明されることによって数の認識だけではなく、論理的な整理や批判的な思考などの、複雑な知的行為ができるようになっているのだと考えられます。
 わたしたちの脳は、他の生き物に比べれば発達していると言われています。しかしその程度は、元々は3くらいの数を認識するにとどまるものなのかもしれません。周りにあるものを分類したり法則や因果を見出そうとするのは、脳の能力的にはそうせざるをえないということであり、それがヒトの生存戦略となっているとも考えられるのです。

認識に縛られないように

 人間がつくりだした認識や理論を絶対のものと信じすぎなくていいのかもしれません。ヒトの脳や心の性質上、分類や理論化をせざるをえなかったのであり、世界がそのようにあるわけではないとも言えそうだからです。わたしたちが新たな認識を得ても、世界は変わらず複雑で多様です。認識が変わっても、同じように存在します。
 しかし人間がつくりだした社会はまたすこし別なのだと思います。認識によって変わっていくのだと思います。それはその認識をもった人間によって人間社会がつくられているからです。性別や一面的な能力で分類をし、生き方にまで影響を与えます。理系に分類されれば、数学や理科が得意で国語や社会が苦手なのだと自分で錯覚してしまうかもしれません。その後の進路や学ぶ対象も縛られていくでしょうし、社会的にも分類に則ったレールが引かれていることもあります。本当はもっと、グラデーションで、いくつもの特徴の組み合わせで成っていくはずなのに。
 先日NHKで放送されていた『​​ジェンダーサイエンス (1)「男X女 性差の真実」』では、男性と女性の差がいかにあいまいなものであるかが科学的に示されていました。きっとこれからも、わたしたちが信じて疑わない分類や認識が、知見の積み重ねや社会の変化によって再構築されていくことでしょう。

 硬すぎる認識は、脳としては楽なのかもしれませんが、身体や心としてはストレスを感じてしまうこともあるでしょう。生活習慣は一定である方がいいとされているように思いますが、夏は早く目が覚めますし冬は朝起きたくありません。もしかしたら、日の出の時間に合わせて毎日すこしずつ起きる時間も寝る時間も変えた方がいいのではないでしょうか。このような、時計の時間に人間を縛るような考え方は、自然を相手にする農業から機械に合わせて働く工業へと社会がシフトするなかで確立されていったものかもしれません。それが正しい・良いとされる理由が、今でもそうなのか、本当にそうなのかは、疑ってみる必要があるのだと思います。
 あたりまえとされる分類や認識は、そのままにしておいた方がエネルギーは省けます。しかし違和感や窮屈さを感じたら、自分なりに再構築してみてもいいのだと思います。言語の習得などの学習の過程を研究している、認知心理学・発達心理学などを専門とする今井むつみ氏は、『学びとは何か』のなかで次のように言っています[4,kindle2635]。

何かを学習し、習熟していく過程で大事なことは、誤ったスキーマをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことなのである。

スキーマとはその時点で備えている自分にとっての常識や経験則を意味します。スキーマとは構造的なものをイメージさせますが、その構造物を作ることは作るのだけど、固く握りしめ続けるのではなく必要に応じて修正を行うこと、それが学びに対するいい姿勢であると述べています。
 ヒトは分類や認識をするのだと思います。それは、高度な思考を助けてくれたり、複雑な問題を解決に導くかなめを見つける視点となったりもします。人を分類することも必ずしもレッテルを貼ることにはならず、他者との違いを意識するきっかけになり他者を尊重することにもつながります。しかしそれはひとつの見方でしかないのかもしれないという捉え方ももっておく必要があると思います。世界はただ在るだけで、人間の嗜好性のようなもので分類や認識がつくられてきた側面があるのであれば、それに縛られる必要はないはずだからです。


〈参考図書〉
1.佐々木正人著『アフォーダンス入門 ー知性はどこに生まれるか』(講談社学術文庫)
2.松木武彦著『美の考古学 ー古代人は何に魅せられてきたか』(新潮選書)
3.今井むつみ著『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)
4.今井むつみ著『学びとは何か ―〈探究人〉になるために』(岩波新書)

(吉田)

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