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つながるかけら。 ー知の地層をつくるヒトコミュニティ

(文量:新書の約18ページ分、約9000字)

 一生をかけてもできるかどうか分からないものを目の前にしたとき、やる気はどうコントロールしたらいいのでしょうか。サグラダ・ファミリアの完成を見ることなく、いや完成が見られないことを知っていて建築に取り掛かりこの世を去ったアントニオ・ガウディは、「神はお急ぎになりません」と言っていたそうです[1,kindle249]。そこまで信仰に篤くない人にとっては、完成を見ないものに一生を費やすことは難しいように感じてしまいます。
 しかしそれでも、完成を見られないかもしれない壮大なものに時間を捧げてみたいという気持ちも、心の奥底にはたしかにありそうです。この相反する気持ちに、どのように向き合っていけばいいのでしょうか。

 今、わたしたちが完成品としてみているそれは、誰の手によって作られたものなのでしょうか。たとえば、iPhoneに視線をおくれば、黒のタートルネックを着て不敵な笑みを浮かべるあの人が浮かぶかもしれません。しかしそのデバイスは、液晶パネルやリチウムイオン電池、CPUなどのいくつものハードウェアと、OSをはじめとした様々なソフトウェアで構成されています。そのそれぞれに研究や開発の歴史があり、名が知られていない数多くの人が携わってきました。また同時代を生きる人たちの連帯によっても成されたことでしょう。
 普段あまり意識することはありませんが、わたしたちが使っているものや参照している知見には、積み重ねられてきた歴史や人々の連帯が潜んでます。そして、歴史を重ねることや、間接的にでも連帯し合うことは、人間がもつひとつの特性であると言えるのかもしれません。人間は知の共有をすることで、自らが生きる社会を安心安全で豊かなものに進歩させてきたのです。
 今回は、知の共有をせずにはいられない人間の特性から、もしかしたら完成までこぎつけられないかもしれない、完成しても日の目を見ないかもしれないことに取り組むことの意味を考えていきたいと思います。

大いなる知の地層

 1万年以上前に狩猟採集を生業として生きていた人たちと、現代を生きるわたしたちとでは、どちらが多くの知識を持っているでしょうか。言うまでもなく現代人、と思うかもしれません。食料は自ら生産できるようになりましたし、家も堅牢で快適なものに住んでいます。
 しかし、石斧を作ることはできるでしょうか。おそらく石斧に適した石というものがあり、柄(つか)である木との結え方が緩ければ使い物になりません。食料も、どこにどのような動物や魚介類がいて、罠の仕掛け方など、どうすれば獲れるかも知っておかなければなりませんでした。数多くある木の実や山菜、キノコ類も、どれが食用として適しているのかを頭に入れておく必要がありました。食べるということだけに関しても、相当な知識量が必要とされたはずです。ほかにも家の建て方や怪我や病気への対処の仕方、あるいは天気の読み方なども、生きるための知として備えていたことでしょう。生活水準の違いの大きさに比べて、必要とされる知識の量や質は現代と違わなかったように想像されます。
 脳のサイズも、狩猟採集をしていた頃のホモ・サピエンスと、現代のホモ・サピエンスであるわたしたちとでは、大きな違いはないと考えられています。生物進化のスピードは非常にゆっくりであるという考えからも、数万年前と今とでは、生まれもった能力に大きな違いはないでしょう。つまり、ひとりの人間としてもっている能力や知識量は、狩猟採集時代も現代の高度な文明時代も、変わらないのではないかと考えられるのです。
 
 では、現代の高度な生産性を生み出している要因はどこにあるのでしょうか。それは、人類というコミュニティが長い時間をかけて積み上げてきた、知の蓄積にあるのではないかと考えられます。このコンテンツでは人類の知の蓄積を、長い歴史の中で連続的に蓄積されてきたという意味で、「知の地層」と呼んでみたいと思います。
 言語がまだない時代にはおそらく身振り手振りで、言語は生まれたけれども文字がまだない時代には口伝てで、知は伝えられてきました。これらの時代には、親族に近い集団内や、特別に交流があった集団同士での知の交換であったことでしょう。その後文字が生まれ、さらに活版印刷機によって書物をはじめとした紙媒体の量産が可能になると、格段に多くの人々が知にアクセスできるようになりました。1664年、光り輝く彗星が現れたとき、ヨーロッパ諸国の人々は空に目を向けていました[2,P1]。宇宙を探究する機会と捉えて息巻いたり、不吉なことが起こる予兆と捉えたりとさまざまでしたが、それらの論争は記事を通じて世に流通しました。人々はそれを見てさらに関心を深め、多くの情報が溢れる中で着実に、自然の解明へと進んでいきました。自然現象が科学的に解明されていった、後に「科学革命」と呼ばれる時代の真っ只中の出来事です。
 知は、文字で記録されるだけではありません。モノにも記録され流通しました。戦国時代から安土桃山時代を生きた種子島氏14代島主・種子島時堯(たねがしまときたか)は、ポルトガル人から鉄砲を2丁購入しました。2丁では戦いに使うには少な過ぎます。なぜ、2丁だったのでしょうか。それは、1丁は実際に試し打ちをする用として、もう1丁は分解して研究する用として利用するためです。構造を理解した上で自分たちで量産するために、2丁だけ購入したのです。ポルトガル人は、まだ鉄砲を持っていないけれども興味津々な日本人に大量に売りつけようとしていたようですが、目算が外れてしまいました。鉄砲そのものに記録された技術や知識を着実に読み解き、自分たちのものにしたのです。
 紙やモノを通して確実に蓄積され流通していた知は、インターネットの普及により電子データとして蓄積されることが一般的になり、それによって世界中の最新の知にコストをかけずにアクセスできるようになりました。しかし忘れてはならないのは、いかに知を獲得するハードルが低くなったとはいえ、その知は大いなる蓄積の上に成り立っているということです。16〜17世紀の科学革命を推進した科学者は、紀元前4世紀の哲学者・アリストテレスの知をひとつの土台にしていたといいます。あるいは、そこまで著名な人物に触れるまでもなく、たとえば、わたしたちはなぜ猛毒をもつフグを食べることができているのでしょうか。それは安全に食べるための調理法が確立されているからですが、その安全を確認するために毒の犠牲になった人たちがいたはずです。気にもとめない生活のそこかしこに、遠い時代、挑んだ人がいるはずなのです。

 教科書などで取り上げられている偉大とされる発見だけではなく、生活で触れているさまざまなものに知の蓄積が織り込まれているのだと考えられます。機能的なものから装飾的なものまで、普遍性の高いものから個別性の高いものまで、さまざまな知が今のわたしたちの生活を支えているはずです。もしかしたら、なんだか気に入って使っているそのカップも、名もなき陶芸家の渾身の逸品かもしれません。
 なんらかの理論は、それ以前に生み出された理論の上に成り立っているものがほとんどなのではないかと思います。また理論を検証するためには、検証をするための方法を考えなければならず、これにも大きな苦労が伴います。経験的に生み出される知にしても、膨大な学習が伴っていることでしょう。宮崎駿氏は、町に出れば、人間の一挙手一投足をずっと観察しているそうです。そうして作られるアニメーションでは、年齢や性別によって、みな歩き方が違うのです。今のわたしたちの生活を支えている知は、ひとりひとりの名を知ることなど到底できないくらい、深い地層の上に成り立っていると考えられるのです。

 知を他者に伝え地層化していくような営みは、当たり前に行われることであると思うかもしれません。しかし、実はそうでもないようなのです。他の生物と比較すると、人類特有の性質の上に成り立っていることであるということが見えてきます。
 知を地層化させる力が人類というコミュニティにあることを前提とすると、自分の営みを、どのような時間軸で成していくのかということに対する考えが変わってくるのではないかと思います。つくり上げたそれが自分が生きている間にしか効力を発揮しないのであれば存命中に具体的に役立つモノ・コトとして世に出すことを急ぐ必要がありますが、残ったり続いたりしていくのであれば、基礎となるようなものをじっくりとつくり上げていくこともひとつの選択肢となるからです。
 次は、人類が知の地層をつくる原動力となっていると考えられる特有の性質についてみていきたいと思います。

共有する動物、ヒト

 突然ですが、「教える」行為をする動物は、地球上に何種類いるかご存知でしょうか。確認されているところでは、わずか4種類なのだといいます[3,kindle847]。ミーアキャット、タンデム・ランニングアリ、シロクロヤブチメドリ、そして人間です。テレビなどで動物の映像を見ていると、少なくとも親子間では教える・教えられるが成立している動物はもっと多くいそうです。しかし、以下のような教育の定義に則るとわずか4種類しか確認されていないのだといいます[3,kindle794]。

①ある個体Aが経験の少ない観察者Bがいるときにのみ、その行動を修正する。
②Aはコストを払う、あるいは直接の利益を被らない。
③Aの行動の結果、そうしなかったときと比べてBは知識や技能をより早く、あるいはより効率的に獲得する。あるいはそうしなければまったく学習が生じない。
(動物行動学者カロとハウザーによる「積極的教示行動」の定義)

少しまどろっこしい言い方ですが、親子に置き換えて言い換えると、親が手間をかけて見せたり聞かせたりしてそれによって子の学習が効率的になっている場合、教えていると言えるということです。ここで、「手間をかけている」というのが一つのポイントです。たとえば、石を使ってココナッツを割る行為を、子が学習するとします。このとき親が教えていると言えるのは、ココナッツを置く場所や向きにコツがあるのだとしたら、その行為をゆっくりと子に見えやすいように行う必要があるということです。いつものように手慣れた様子で手早くココナッツを割るだけでは、教える行為には該当しません。それを見て子がココナッツの割り方を学習したとしても、それは観察や模倣による学習であり、教育を受けたことによる学習には該当しないのです。チンパンジーや猿はさまざまな行為を行いますが、親などが手間をかけた教えるという行為を施しているわけではなく、観察・模倣学習の結果であると言えるようなのです。
 他者のために手間をかけるというのは、自然環境(人間であれば社会)を生きていく上で、とても不思議な性質です。なぜなら、手間をかけるによって、その分自分の生存が不利になるからです。先に示した教育の定義の②は、教える側の個体であるAはコストを払うあるいは直接の利益を被らない、というものでした。そしてその結果③として、教育を受けた者であるBは知識や技能が向上するのでした。競争を前提とする環境では、AがBに教育を施すことで、Aは生存に不利になりBは有利になります。しかしそれでも、教えるという行為をする人間をはじめとした4種が生き残り続けているという事実は、生存戦略としての合理性を示しているのだと考えられます。特に人間の場合は、血縁関係を越えて教えます。しかも教えたいという気持ちは、結構強いはずです。そんな教えたい人たちが今日まで生き残っているというこは、教えた人が見返りを受けられるのが人間社会であることを示しているのだと考えられます。なぜなら、教えた人がそのまま生存に不利になるだけであれば、教える性質をもつ人間は今日まで生き残っていないからです。少し話は逸れますが、近年では個人主義や競争社会を前提に生き方が議論されているようにも思われますが、人間社会の互いを支え合う利他性はもっと注目してみてもいいのではないかと思います。利他的な人間が今日まで生き残っており、且つホモ・サピエンスという種が繁栄しているのですから、利他性が長期生存にどのように寄与するのか分かっておくことは集団にとっても個人にとっても有益なことであると考えられるからです。
 教えるという行為は、人類の脳が発達していて、知性として余裕があるから行なっているわけでは決してありません。もし脳の大きさに基づくのであれば、ミーアキャットやタンデム・ランニングアリやシロクロヤブチメドリではなく、チンパンジーや他の類人猿に教えるという行為が見られるはずです。しかしチンパンジーらは教えません。教える・教えてもらうという行為は、人間を含めた4種に個別に備わった、生きていくための本能的な術なのです。そしてその中でも言語や文字を扱うだけの脳の機能を備えていた人間は、知の地層をつくりあげていくに至りました。知の地層をつくりあげること、そしてそれを血縁などに関係なく多くの人で共有していくことが、人間の本質なのではないかと考えられるのです。


 もうひとつ、知の地層をつくる原動力となっているのではないかと考えられる人間の性質に関する知見を紹介したいと思います。それは、人間の脳が、個人でのパフォーマンスの発揮ではなく、集団でのパフォーマンスの発揮に適応する中で発達していったと考えられていることです。このような脳の発達・進化に対する集団目線の仮説は「社会脳仮説」と呼ばれています[4,kindle1951]。教えるという人間の性質がどちらかというと歴史的な知の層を重ねていくような縦の方向に働くものだとしたら、社会脳仮説は層自体をつくり広げていく横の方向に働くものだと言えるのかもしれません。

 およそ200〜300万年前にヒト属の祖先がアフリカのサバンナに誕生した後しばらくして、およそ20万年前にはわたしたちホモ・サピエンスが誕生したと考えられています。初期のヒト属との大きな違いは、その脳の大きさでした。およそ3倍もの大きさに発達したのです。これを人類学者は「大脳化」と呼びます。脳は大きければ大きい方がいいと思われるかもしれませんが、大きくなることによるデメリットがあります。その1つ目はエネルギー消費が増えることです。人間の脳は、重さは1.5kgに満たない程度であり体重60kgとすると占める割合は2.5%程度ですが、エネルギー消費量は全体の20%程度をも占めると言われています。脳は大食漢の臓器なのです。現代のような豊食でない時代には、カロリーを食いすぎる大きな脳はお荷物にもなりえたはずです。2つ目のデメリットは、脳が大きくなることで必然的に頭が大きくなり、出産における危険が増すということです。子孫を残すという生物にとっての根源的な行為に対して、大きな脳はリスクを増加させるものでした。
 こうしたデメリットがあるにも関わらず大きな脳をもつ人間が生き長らえてきたということは、相応のメリットがあったということになります。そのメリットとは何だったのでしょうか。別の言い方をすると、人類のどのような生存戦略に呼応して脳が大きく進化していったのか、脳は人類がどのような生き方の方向に向かう中でその大きさを獲得していったのかということです。進化論では、ある生物個体が突然変異によって、環境に適応した生存に有利な形質を偶然獲得した場合、その個体が生き残り、種のスタンダードになっていくと考えます。したがって、人間の大きな脳は生存に有利だったと言えるわけですが、先に挙げたように、個人のパフォーマンス向上への適応によって生存に有利になったのか、集団のパフォーマンス向上への適応によって有利になったのかで論争があるのです。人間のどのような生き方に適応するかたちで大きな脳に発達していったのかという論争です。
 前者の個人のパフォーマンスという面で大きな脳が寄与したというのは比較的想像がつきやすいものかもしれません。脳が大きくなることで、作れる道具が多様化したり、食料や外敵を認識したり記憶したり、食べ方に対する工夫が多様化したりしたことが考えられます。他にも狩猟採集に適した場所や危険な場所などを記憶する能力も向上したことでしょう。これらの能力の向上は、食料獲得や危険回避の能力の向上をもたらしたはずです。このような、個人のパフォーマンス向上の面で生存に有利に働き、より適応していく中で大きな脳を獲得していったとする仮説を、生態学仮説と呼びます。
 それに対して集団のパフォーマンス向上への適応を支持する仮説は、協力活動が高度な認知能力を必要とすることを含意しています。人と人とが協力するとき、人数に比例して、認識しなければならない情報量は膨大になっていきます。それぞれの人の得意とすることに応じて役割を分担しなければなりませんし、狩猟の際、大胆な性格なのか慎重な性格なのかでその人の行動の予測が変わり、自分の行動も変わっていきます。また、誰と誰の相性がいいかを把握しておくことも、協力活動には必要でしょう。さらには、集団を維持するために、裏切りを感知したり、一人一人の信頼性を評価しリーダー選びなどに生かしたりすることも必要とされたはずです。集団で生きるということは脳的にも苦労が絶えないわけですが、それでも集団で協力することは、獰猛な動物が生息し食料獲得の不確実性が高い自然界においては生存に有利に働いたと考えられます。人間の生存戦略がどんどんと集団化の方向に向かう中で、より高い認識力や記憶力が有利な能力となっていき、必然的に脳の大きな個体が生き残りに有利になり、種として脳の大きさを獲得していったと考えることができるのです。このような、集団のパフォーマンス向上の面で有利に働き、より適応していく中で大きな脳を獲得していったとする仮説を、社会脳仮説と呼びます。
 この2つの論争に関しては社会脳仮説を支持する根拠がひとつ示されているようです。人類学者のロビン・ダンバーは、さまざまな霊長類のデータを収集し、2つの仮説について検証しました。すると、脳の大きさと社会集団の大きさとの間には比例関係があることが分かったのです。大きな集団で生きる霊長類ほど、脳のサイズは大きかったのです。それに対して、脳の大きさと活動範囲や食習慣との間には、関係性は見られませんでした。したがって同じく霊長類である人間は、集団化に適応するかたちで大きな脳を獲得したと考えられるのです。
 集団で協力する能力を獲得したということは、すなわち他者のさまざまな面を認識できるようになったことを意味します。得意不得意などの能力や好き嫌いなどの性格、それに加えて関心や意図を認識し、共有できるようにもなりました[4,kindle1989]。関心や意図を共有できるようになったことで、今目の前の問題に協力的に対処するだけではなく、目標を共有した未来を向いた協力活動が行えるようになったと考えられます。たとえば今目の前にいる獲物をどう捕らえるかということだけではなく、時間がかかるような大きな仕事に関しても互いに協力できるようになったと考えられるのです。

 たったひとりで実現される偉業というものは、あるのでしょうか。宮崎駿氏は、鈴木敏夫氏というプロデューサーがいてこそ、創作に集中できているように思えます。自分なりのこだわりを持ちながらも、鈴木氏を信頼して、興行として成立させることにも気を配っているように感じられます。鈴木氏は、宮崎氏の好き嫌いや関心や意図を汲んだ上で、企画を推進しているように感じられます。「YOASOBI」は、それぞれに活動していたボーカロイドプロデューサーのAyaseとシンガーソングライターのikuraとが出合ったことで、一気に世を席巻しました。チャールズ・ダーウィンが「ミミズが大地を耕している」という発見をしたきっかけは、その発見につながる現場に誘った知人の存在がありました。ダーウィンならきっと興味を持つはずだと思って誘ったに違いありません。科学的な発見は、ある時代に集中して起こるように思います。これも発見が発見を呼ぶという、物理的距離を越えた知的協働の結果であると考えられます。
 ひとりがもつ知識や技術、発想や構想、磨かれたセンスなどは、かけらにすぎないのかもしれません。しかし協力を志向する人間の心が、かけら同士に引力を生み、互いを近づかせ協調を成していくのではないでしょうか。そうして、一つの時代的な層をつくりあげていくのが人間なのかもしれません。

つながる仕事

 人類は、その本能的な性質から、知の地層をつくりだし、人類というコミュニティ全体で共同保有してきました。教えるという行為によって知は横に伝搬していき、書物や電子データに残すことで後世にも伝えられていきます。他者の関心や意図を汲み取り協力をすることで、かけらに過ぎないかもしれないアイディアやセンスが組み合わさり面的な広がりをみせていきます。そうしてつくりあげられた知の地層の上に、また層が重なっていき、未来の営みは成立していくのです。
 理想は、いつも遠くにあるものなのかもしれません。創作やプロジェクト、あるいは自分なりに探求や研究をしてみたいものなどは、完成や成功といえるところまでたどりつけるのかは分かりません。しかし、仮に、たとえかけらであっても、知の地層の一部として人類のコミュニティで共有され活用されていくのであれば、それもひとつの仕事のかたちです。
 50年でためらいなく造り替えられる鉄筋コンクリートのマンションがあるかと思えば、100年200年と大切にされる木造の家があります。メンテナンス次第で持ちが変わるということも言えますが、技術的な新しさだけではない長持ちするような配慮がされた設計や施工、住み良さが追求され大切にしたいと思わせるデザインなど、残るものには何か普遍性をおびた良さがあるのではないかと思います。雑踏から抜け出すことは簡単なことではありませんが、普遍性を見つめるまな差しをもち、長い目線でもって活動することを恐れずにいたいと思いました。

〈参考図書〉
1.外尾悦郎著『ガウディの伝言』(光文社新書)
2.Lawrence M.Principe著/菅谷暁・山田俊弘訳『科学革命』(丸善出版)
3.安藤寿康著『なぜヒトは学ぶのか ー教育を生物学的に考える』(講談社現代新書)
4.スティーブン スローマン・フィリップ ファーンバック著/土方奈美訳『知ってるつもり 無知の科学』(早川書房)
 
(吉田)

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