進歩的自由空間 〜縛られず所属できる場に関する考察〜

所属は求めるけど、縛られるのは嫌だ、というのが現代の私たちの価値観ではないでしょうか。
かつては、会社でも地域でも、帰属や掟の遵守を強く求められました。
その代わりに、同じ集団の皆は一蓮托生の仲間であるという意識のもと、安定や保護を得ることができました。
しかし現代は、所属や忠誠によって安定や保護を得られるという前提は崩れ、転職・副業や引っ越しなど、会社や地域に定着しない生き方が一般的になり、その自由を良しとする価値観に変化してきていると考えられます。
他方で、よく言われることですが、人間は社会的な動物であるため、どこかに所属して、人とのつながりを感じられる時間や機会を、求めながら生活していると考えられます。
その欲求の対象は、お金のように目に見えるものではありませんが、不足することによって、孤独を感じたり、安らぎの上に頑張ろうという気持ちも、湧きにくくなるのではないでしょうか。

では、所属は求めるけど、縛られるのは嫌だ、という一見相反する欲求は、どのようにして満たすことができるのでしょうか。

先週のリベルの短編本『民主主義社会の君主』では、国民が主権をもつ民主主義社会において、権力の象徴というイメージがある君主が、なぜ存立し続けるのか、その意義や役割について考えました。
その一つの存在意義を、エリザベス二世は「個人的な生きた紐帯」であると述べました。
つまり、民主主義社会に存立する君主は、強い権力を有さなくても、人々のつながりや所属を生み出すための役割を果たしている考えられます。
今回は、この「紐帯としての君主=つながり形成に寄与している」ということを起点として、他のつながりを生み出すものとして想像される「場」についても比較検討し、現代に適したものは何なのか、考えてみたいと思います。

君主の役割

「君主」と聞くと、独裁者のイメージが湧くのではないでしょうか。
確かにかつては、強い権力を持ち、独裁的な政治を行う君主がおり、現代でもそのような君主は存在します。
しかし、社会の民主化が進むにつれて、その権力は制限されていき、民主主義国家においては、政治に対する権限や決定権はかなり限定的であると言っていいと考えられます。
民主主義社会における君主の例としては、イギリスの国王陛下や日本の天皇陛下が該当します。
アメリカなどは君主をおいていないため、国家運営は君主をおかずとも成立するということが言えます。
では、なぜ民主主義社会へ移行後も、君主の存在はおかれ続けることになったのでしょうか。
社会にとって、どのような存在意義や役割があるのでしょうか。

その一つの答えは、議院内閣制が最初に成立した国である、イギリスの君主の役割の変化を見ていくことでイメージしやすくなると考えます。
議員内閣制とは、選挙によって選ばれた議員が運営する議会によって、内閣が信任され、その内閣が政治を執り行うというシステムです。
つまり、間接的にではありますが、民意が反映された政治が執り行われるということであり、イギリスはそのような民主的システムが成立した最初の国であると言うことができます。

イギリス国王は、17世紀前半頃まで、王は神に対してのみ責任を負うという「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」を唱えた国王が君臨していました。
しかしながら、国王が政治的検討や取り決めを一人で行うことは困難であったため、王権神授説を唱えながらも、議会の原型のような有力者に意見を求める会を開いていました。
それは、開催が義務付けられているものではありませんでしたが、それによって有力者は政治に貢献していたのです。
その後、国民からの「請願」を受ける庶民院と、それを承諾する貴族院に分かれるなど、国民の意見を反映する仕組みも作られていきました。
そのような中において、時折、有力者の意見を効かず、独善的な政治を執り行う君主が現れました。
君主が絶対的権力者である時代においては問題のない行為に思えますが、もはや有力者で構成される議会の力を無視することは出来なかったのです。
そのような君主は、その地位を追われたり、処刑されることとなっていきました。
そのような、徐々に進んだ民主化の流れの中で、現代の民主主義国家では一般的な議院内閣制などの仕組みが整えられていったのです。

日本においては、明治維新により士農工商が廃止され、四民平等が唱えられた時から、民主主社会へ突入したと言うことができます。
しかし、当時の人々の様子を綴った『学問のすゝめ』(福沢諭吉著)では、四民平等となっても、その自由をどのように活かせばいいのか分からず、変わらず人々は「お上」を見た言動をしていたと記述されています。
つまり、仕組みや思想が社会に導入されても、人々がその瞬間から新たなものに適応するのではなく、徐々に解釈し、その言動や価値観に変化するのだと考えられます。

現代は、そのような民主主義社会の幕開けから、100年、200年単位の時間を経ています。
そのような、変化の流れの中でエリザベス二世が発した自身の役割とも言える表現が、「あなたと私の間を結ぶ、個人的な生きた紐帯」というものでした。
絶対的な権力を持つ地位から、その権力が制限されていき、それ以後の国王は、民主主義社会における君主の存在意義を考えました。
それは、政治の世界から距離をおくことで、逆に公正中立な立場で国家の発展や安寧に尽力できることであり、しかも権力抗争に巻き込まれないため、長くその地位にいて国家に尽力し続けることができます。
そのような君主の存在は、人々にとっては安心感を与えるものであり、同時に社会貢献活動も積極的に行っているため、人々に誇りも感じさせる存在となっていきました。
そのような存在感や行為が、国家の可視的な象徴として認識され、それによって人々は国家への所属を感じることができました。
つまり、民主主義社会の君主は、その国家の人々に所属意識をもたせる役割を果たしていると考えることができるのです。

しかし、そのようなつながりを生み出すのは、君主のような象徴的存在だけではなく、人々が集まり交流する「場」にももとめることができます。
そして、民主主義的な、中央的な権力者や階層が存在しない場の一つとして、「サードプレイス」がその代表的な概念として挙げられます。

フラットな場「サードプレイス」

サードプレイスとは、家でも職場でもない、「第三の場所」という意味合いです。
家では家族の中で求められる役割があり、職場では序列が存在し、それぞれにストレスや疲れの要因があります。
サードプレイスは、そのような縛りがなく、しがらみを感じない自分らしくいられる場所であると言われています。
具体的には、町にとけこんだカフェやバー、公園、または床屋なども、人が集まりサードプレイス的な交流が成される場であると考えられています。

レイ・オールデンバーグはその著書『サードプレイス コミュニテイの核になる「とびきり居心地よい場所」』の中で、その特徴を記しており、ここではその一部を紹介します。
一つ目は、サードプレイスは「中立的な領域」であるということです。
そこにいるときは、仕事に紐づく階級を表に出す必要はなく、逆にそのような話題を出そうとすると、周りが嫌悪感を示します。
家でも職場でもないその場では、みな中立でいることを望むのです。
二つ目は、会話が主たる活動であるということです。
エンターテイメント性のあるコンテンツがあるわけでもなく、豪華な飲食物が用意されているわけでもありません。
ただそこに集い、「会話する楽しさ」を求めて人々は集まるのです。
三つ目は、そこに集う人々にとっての第二の家になりうるということです。
会話を通して、そこに集う人々は打ち解けていきます。
また、家の近くなど、日常的に通いやすい場所にあるため、いつものメンバーが集まります。
いつもの人がいる、いつもの場所の、中立的な空気の中で、人々は安らぎを感じられるのです。

このようにサードプレイスは、その場所に行くだけで人とのつながりや、地域への所属を感じられる場所です。
しかも、中立的な場であり、たわいもない会話が主たる活動であるため、縛りを感じることもありません。
したがって、サードプレイスは、現代の私たちの「所属は求めるけど、縛られるのは嫌だ」という価値観に合致する概念の一つであると考えられるのです。

しかしながら、そのような目的の具体性が低い場は、人工的に創る難易度は高いと考えられます。
かつてサードプレイスは、町の中にごく普通に存在していましたが、都市開発などを経て、減少していったと考えられています。
現代の特に都心部では、昔ながらの自然なつながりをもたない人が多く、ご近所さんとの付き合いも希薄です。
そのような状況において、ただ会話をするために集まる場を、ゼロから創ることは困難であると想像されます。
では、どのようなものが、現代に適したつながりを生み出す装置と考えられるのでしょうか。

進歩的自由空間としてのゼミ

ここで、これまでの紹介したつながりを創り出す装置である、君主とサードプレイスの特性について以下のように整理します。

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君主は、絶対的な権力を有していた時代でも民主化以後の時代でも、その存在が明確でした。
そのような明確な存在は、その高い目的性や象徴性をもって人々を集わせ、つながりを創り出すことができます。
他方で、その求心力は何らかの思想や考え方で、そこに集まる人々の心を縛る可能性が高く、現代の価値観に沿うものではないと考えられます。
反対にサードプレイスは、心を縛るような思想や考え方は存在しませんが、人々のつながりをゼロから創り出す力は弱いと考えられます。

これら二つの、つながりを創り出す力が強く、心の縛りも低い、良い特徴を備えたものとしては、どのようなものが考えられるのでしょうか。
直感的ではありますが、これまでの経験から、それは大学にあったように感じ、特にゼミや研究活動に、そのような特性が備えられていたように感じます。
ゼミや研究活動では、研究分野ごとに先生や研究室を選び、自分で研究テーマを決めて、期限はありますがそれまでは自分のペースで活動を進めることができます。
ある程度の深める領域やテーマ性が定めっているため、似たような興味関心や価値観の人が集まりやすく、つながりは生まれやすいと考えられます。
また、知識と経験が豊富な先生がいることは、人を集める力となります。
他方で、テーマや進め方を自主選択できればという前提付きですが、心の縛りも強くはないと考えられます。
時折、研究に対する考え方、そこでの過ごし方を押し付ける先生がいますが、そのようなゼミや研究室は心の縛りは強いと言え、該当しません。
自分の知的好奇心や問題意識に従って、先生やゼミや研究室メンバーの助言や励ましを受けながら、それらを探求することができ場を、ここではイメージしています。

学生の頃は、卒業がかかっており、半ば強制感をもって活動をしていた人も多いでしょう。
しかし、大人になって様々なものに疑問を持ち、学ぶ意欲を持ち始めた時には、そこに心の縛りは感じにくいと考えられます。
また、そこで生まれる新たなつながりも、それからの人生の豊かさにもつながると考えられます。
ゼミは、大人になってから振り返ると、所属は求めるが、縛られるのは嫌だという価値観に沿ったもので、自身の進歩も感じられる有意義な活動の場であると言えるのではないでしょうか。

今回の考察は直感的な部分が多々ありますが、今回はこのような「進歩的自由空間」が、現代に求められているのではないか、という考えに至りました。
先生が君主であり、研究室がサードプレイスということになりますが、もう少し開放感があるような場所でもいいのかもしれません。
先生も、民主主義社会における君主のように、「君臨すれども統治せず」であれば、生活に一体化した、長く通うような場になるのかもしれません。

〈参考文献〉
・レイ・オールデンバーグ著(2013)『サードプレイス コミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」』(みすず書房)
・リベル(2019)『民主主義社会の君主 〜権限を有さない代表の役割〜』https://liber.community/crown-in-democracy/

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大人の方がゼミを求めているんじゃないかな。 #リベル

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リベルは、もっと自由な発想や思考を持ち続けたいという願望から、始まりました。考古学や生物学などの、ビジネスから離れた専門の先生から、新たな視点を得ることを目指しています。 ここでは日々思ったこと、考えたことを書いています。 https://liber.community/

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