どうすれば「三人寄れば文殊の知恵」を生み出せるのか

大きな問題を抱えた時や行き詰まりを感じた時、相談やディスカッションを人に持ちかけて答えを求めたくなります。
しかし残念ながら、相談したからといってすぐに答えは見つかるわけでもなく、「やっぱり自分で考えなきゃなぁ」なんて姿勢を改めたりもします。
他方で時には、ただの一言で問題解決の糸口が見えたり、たたみかけるようにアイディアが深まっていくこともあります。
この違いは何から生まれるのでしょうか。
どうすれば各々が持つ知識や経験を重ね合わせ、行き詰まりを打開し、より景色のいいところへと登っていくことができるのでしょうか。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がありますが、これはどのような状況下で生み出されるものなのでしょうか。
今回は、どうすれば他者から知恵を得られるのか、または知恵を一緒に生み出せるのかをテーマとして考えてみたいと思います。

尚、今回は西垣通著『集合知とは何か』から知に対する考え方を学んだ上で、本テーマについて考えを深めていっています。

「知恵」とはどういうものか

まず、「知恵」とはどういうものを言うのかを考えていきたいと思います。
知恵に対する考えを深めることで、どうすれば知恵をひねり出せるのかイメージしやすくなると考えるためです。
知恵と類似する知識や情報という言葉もありますが、知恵とはどのようなものを言うのでしょうか。

知恵とは人や文脈に依存するもの
「知恵」とは、私たちが相談やディスカッションを人に持ちかけて求める打開策や答えそのものであると考えられます。
相談をするとき「お知恵をください」とは言いますが、「知識をください」とはあまり言いません。
知識とはどちらかというと本などの媒体に載っているものであり、あまり人には求めないものだと思います。
仮に人に「知識をください」と持ちかけた時、それは調べればどこかの媒体に載っているでしょとも言われかねません。
他方で、知恵は人に根ざすものであり、あまり本などの媒体には求めないと思います。
つまり、知恵とは「人」に根ざすものであり、媒体には載せにくいものであると考えられるのです。

しかし、本当に媒体には載せにくいものなのでしょうか。
読書でも、著者の深い考察に追随して考えていくことで、著者に根ざしていた知恵をいただくこともできると考えられます。
考える読書の過程で、著者の知恵を自分の中で消化していき、その一部だけでも自分のものにできるということです。
ただし、本の内容をただ頭に入れただけでは知識や情報に留まり、自分の中に溶け込ませることで初めて知恵と言えるのではないかと考えられます。
したがって、前言を修正すると、知恵とは「人」に根ざすものであり単なる文字情報などでは載せ難い、しかし文脈と共に考えることで媒体から得ることもできる、とも言えそうです。
単にインプットするだけでは「知恵を得た」とは言えず、単にアウトプットするだけでは「知恵を授けた」とは言えないのではないかということです。

知恵とはどのような問題に対する解決策なのか
「知恵」とはどういうものを言うのかをもう少し深めていきたいと思います。
今度は、「知恵とはどのような問題に対する解決策なのか」という視点で考えてみたいと思います。
結論を申しますと、知恵とは「主観的な文脈に乗った問題に対する解決策」であると考えました。

現代ほど科学などの普遍性の高い理論が確立されていなかった時代、あるいはそのような知にアクセスできなかった時代、人々は個別具体的な方法で目の前の問題を解決していたのではないかと想像されます。
それが「知恵」と呼ばれるものの起源ではないかと思うのです。
例えば「おばあちゃんの知恵」などと呼ばれるものがありますが、これはおばあちゃんが生きてきた環境において特に有効に働くものであると考えられます。
そうやって、その環境ごとに人は知恵を蓄え、問題を解決してきたのです。
これらの解決策はとても「主観的な文脈に乗った問題に対するもの」であると言えると考えられるのです。

おそらく、私たちが知恵を求めて人に相談する問題も、個人の主観的な文脈に基づくものなのではないでしょうか。
プライベートに関する相談はもちろん、進路やキャリアに関する相談や、事業の相談も個人の思いや状況が乗っているという点で主観的です。
私たちが求める知恵とは、主観的な文脈に乗った問題に対する解決策であると言えると思うのです。

現代は、インターネットによって膨大な知にアクセスできるようになり、本も電子書籍等で入手しやすくなりました。
科学だけではなく、経営学や心理学などの様々な分野で理論が生み出され、私たちはそれらを手に入れることが出来るようになりました。
しかしそれでも私たちは、知恵を求めて人に相談するなどして彷徨っているのではないでしょうか。
では、なぜこれほどまでに知が確立されてきたように感じる現代社会においても、知恵の不足を感じるのでしょうか。

知恵は「客観的な知」ではない

知恵を得たり生み出したりする困難さを理解するために、次に「知恵は客観的な知ではない」ということに考えておきたいと思います。
もっと言うと、私たちの主観的な文脈に乗った問題は、客観的な知だけでは解決できないということを述べてみたいと思います。

客観的な知は個々にとっての普遍ではない
客観的な知とは、数字に基づく事実や普遍性が高い理論などをここでは指します。
または様々な理論や社会常識をもとに構築された論理も、客観的な知に該当すると言えます。
これらは一見誰にでも当てはまる正解を示してくれるように思います。
しかし、次のような実験によって得られた考察を踏まえても、同じように思えるでしょうか。

生物の視覚の研究者であったマトゥラーナは、ハトの眼にいろいろな波長の光を当てて脳の視神経の興奮パターンを調べる実験を行いました[1,P101]。
そこでマトゥラーナはあることに気づきます。
それは、同じ波長を当ててもハトによって反応が違ったのです。
これが意味することは、客観的には同じ光信号を与えても、個々のハトの内部では違う処理がされているということです。
マトゥラーナはこの現象を、「ハトの反応は、過去の記憶にもとづいて内部的にきまってくるのだ」と解釈しました。

つまり、客観的には同じインプットがされても、主観的な処理や解釈は違ってくると言えるということです。
ということは、客観的には普遍的だと言われるようなことでも、人それぞれで解釈が異なるので、それはすなわち個人個人にとっては普遍的ではないということになります。
もちろん、理論というのは私たち個々の活動の具体を抽象化して得られる側面もあるため、完全に外れるというわけではありません。
ただ、個々の経験や遺伝子が違うという前提においては、客観的な知が個人にとっての普遍や正しさを与えてくれるとは言えないのです。

客観的な知の役割、働く階層
私たちの主観的な文脈に乗った問題解決と客観的な知の親和性について考えるために、客観的な知のそもそもの役割についても考えてみたいと思います。
結論から申しますと、客観的な知とは「社会活動を円滑にするための知」であると言えると考えられます。
つまり、主人公は社会であり、個人ではないと考えられるのです。

例えば、飛行機などが飛ぶ原理を示したベルヌーイの定理がなければ、翼によって物質が飛ぶという共通認識が生まれず、飛行機の研究開発は進みにくかったのではないかと考えられます。
みんなそれぞれ実験をして飛んだ飛ばなかったの繰り返しをしていては、物質が飛ぶということを信じられず、研究開発をする人も、飛行機に乗りたいと思う人もあまり出てこなかったのではないかと想像されるのです。
ベルヌーイの定理はいわゆる科学的な知ですが、科学が幅を利かせる前は神の教えが世の真理であり、一つの代表的な客観的な知であったと言えます。
さらにさかのぼって、縄文や弥生の頃の社会でも自然現象を何らかの考えによって説明し、祭祀などによって不安を解消し社会をまとめていました。
真理であるかどうかは後世に覆されることはありますが、社会活動を円滑にするための時代ごとの客観的な知が、個々の問題を解決する知恵とは別に存在してきたと考えられるのです。
そのような客観的な知を基にして、様々な社会制度や人々の行動が定められていっていると考えられるのです。

このような背景を踏まえると、客観的な知とは、個人の問題を解決することとは別の役割や階層で存在していることが分かります。
社会の共通認識としては正しいと考えられても、それがそのまま経験も遺伝子も異なる個人にフィットするとは限らないのです。
すなわち、客観的な知は、主観的な文脈の問題を解決する知恵ではない、あるいは知恵としては不十分であると言えると考えられるのです。

したがって、客観的な知である理論や、理論や社会常識を組み合わせた論理構築だけでは、何かを相談された時の答えとして不十分であると考えられるのです。
いかに強力な理論を携えた三人が集まろうとも、主観的な文脈に乗った問題の解決には不十分であると言えそうなのです。
では、どうすれば「三人寄れば文殊の知恵」を生み出せるのでしょうか。

どうすれば「三人寄れば文殊の知恵」が得られるのか

ここまでの「知恵」に対する理解を踏まえると、「三人寄れば文殊の知恵」を生み出すためには、「文脈を合わせる」ということが必要とされそうです。
これは一見当たり前であり簡単そうにも思えますが、文脈を合わせるとはどういうことかと想像すると、それほど容易なことではないのではないかと考えられるのです。

文脈が自然に合っていたコミュニティ
文脈の合い具合は、活動を共にする時間に依存すると考えられます。
身近な例で言うと、学生時代、仲のいい友達が阿吽の呼吸で良いアドバイスや後押しをくれることがなかったでしょうか。
また、例えば職人の世界では先輩の職人が状況に則した助言をくれたり、親子においても同様のことがあるように思えます。

かつての社会では、文脈を合わせるのに十分な時間を共にしている他者が周囲に当たり前にいたのではないでしょうか。
小さい頃から生まれ育った地域を出ることもなく、仕事も親族で行うことが多かったと思われます。
しかし、産業革命後の工業化社会への移行期や戦後の高度成長期に、生まれ育った共同体を出て都市部で働くようになりました。
それでも会社が終身雇用などの制度を取り入れていたため、会社が地域に代わる共同体の役割を担っていたと考えることもできます。
そのような、長い時間活動を共にする共同体に属していた時代には、知恵を周囲の人から伝授してもらったり一緒に生み出したりすることができていたはずです。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉も、そのような共同体が存在する前提で生み出された言葉ではないかと思うのです。

個人化した社会、多様化した問題
しかし現代は、地域共同体の意識が崩れただけではなく、会社も終身雇用が崩れ始めて、会社に共同体的な役割を求めることは困難になりました。
昔の友だちも、しばらく会っていなければ文脈を合わせることが困難になっていきます。
そうして流動性が高まり、多様な生き方が許容される社会になればなるほど、他者から知恵を授かることや一緒に紡いでいくことは困難になっていくと考えられるのです。

環境や生き方が固定的な時代であれば、先輩が自分と同じ道をたどっていた可能性が高いため、知恵を求めることはできました。
同じような経験をしていれば抱える問題の質も似てくるため、状況を察して適切な知恵を授けたり一緒に考えることもできます。
しかし、全く違う経験をしていれば抱える問題の質も異なり、知恵を共有することは困難になります。

かなりさかのぼりますが、私たちが狩猟採集で暮らしていた頃、人類は最大150人程度の一つの共同体でほぼ一生を生きていたと考えられています。
そのような小さな集団の暮らしの中で、石器や火の使い方が発明され、言語も生み出されました。
その後共同体の規模は大きくなっていきますが、それでも文脈を共有できる人は常にそばにいる状態であったと考えられます。
今後、個人主義化がより進み、リモートワークなどによって働く人同士の物理的距離も離れた場合、知恵が生まれにくくなる可能性がないとは言い切れないと考えられるのです。

文脈の共有を頑張る時代?
これまでも、そしてこれからも知恵を生み出すためには文脈の共有は必要であると考えられます。
そしてその文脈の共有は、これまでの人類が過ごしていた共同体の密度から想像すると、一朝一夕でできる程度のものではないように想像されるのです。

先ほど、狩猟採集時代、人類は最大150人程度の共同体で過ごしていたと述べましたが、この人数規模は大脳新皮質の容量からそう推測されているものです[2,P14]。
霊長類学者のダンバーは、様々な霊長類の大脳新皮質の大きさと群れのサイズに相関関係があることを発見しました。
すなわち、大脳新皮質の容量が大きい種ほど群れのサイズが大きくなりますが、大脳新皮質の容量を越えた大きさの群れは形成されないということです。
大脳新皮質は、認知、判断、言語、思考、計画などの高次の精神活動を司る場所です。
私たちは、共同体内の他者の日々の行動や発言を記憶し、その人の状況や人となりを理解していると考えられます。
それは意識していないだけで、高頻度で多様な情報を基にしているのだと考えられます。
その情報処理量には限界があるので、自ずと群れの大きさが制限されるのです。

現代はネットのQAサイトやSNSで、大衆に向けて様々な問いかけをできるようになりました。
しかし、そのような突発的な問いかけでは、情報や知識は得られても、知恵を得ること、つまり問題解決まで至ることは難しいのではないかと思います。
そこまで求めていないと言えばそれまでですが、普段違う経験をしている人とコラボレーションすることで、思いもよらない知恵が生まれることはとても魅力的です。
そのためには、文脈を共有している仲間がいることが重要だと考えられるのです。
そしてそのような仲間は、最大でも数十人程度が限度ではないかと考えられるのです。
なぜなら、家族や友達も含めて文脈を共有していられるのは、大脳新皮質の容量的に150人が限度であると考えられるからです。
そう考えると、より良い知恵を生み出すという意味においては、あまり多くない人と時間を共にし関係を深めていくというのも合理的な戦略であると言えるのかもしれません。

あまり多くない人と、よりじっくり

今回は、知識や情報ではなく、より良い知恵を得るためにはどうすればいいかを考えてきました。
知恵とは、理論や数字的なファクトなどの客観的な知とは異なる、主観的な文脈に乗るものであると考えました。
そして、そのような知恵を他者から得るためには、または他者と協力して知恵を生み出すためには文脈の共有が必要であると考えました。

時代が移り変わるにつれて、共同体は小規模で固定的なものから、大規模で流動的なものになりました。
それでも私たちの軸足はまだ何らかの共同体に置かれていると考えられます。
しかし、今後もそのような状況は継続できるでしょうか。

現代は、筆者もそうですが、「数」や「早さ」というものに眼が奪われがちであると感じることがあります。
より多量の情報を早く得られる、より多くの人と早くつながれるということに魅力を感じざるを得ません。
しかし、より良い知恵を生み出すという意味においては、あまり多すぎない人とじっくり関係を築きお互いを理解していく、ということの方が合理的である可能性も考えられるのです。
もちろん、そのような合理性にもとづいて人間関係を形成した方がいいと考えているわけではありません。
より多く、より早くが志向される中で、そこを目指しすぎる必要性も合理性もないのではないかということです。
文脈を共有しじっくりと関係を深め、それによってより良い知恵も生まれていく、そんな人生は良いものであると思わざるを得ません。

〈参考文献〉
1.西垣通著『集合知とは何か』(中公新書)
2.亀田達也著『モラルの起源』(岩波新書)

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