ゆれる選択、安心か信頼か。 ー色々とつながりと #4
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ゆれる選択、安心か信頼か。 ー色々とつながりと #4

(文量:新書の約10ページ分、約5000字)

 「あなたを信頼しています。では、契約を結びましょう。」と言われると、どっちだよ、という感情が湧くかもしれません。信頼しているのかいないのかどっちなの?信頼しているなら契約はいらないでしょ?、と。もちろん現実的にはそんなことはなく、仕事における取引や、保険などにおいて、当事者間で信頼が生まれていても、契約を結ぶ必要性はあるでしょう。しかし感情的な面では信頼と契約とは相入れない関係にあるように思えます。
 契約によって得ているものは何でしょうか。それは「安心」なのではないかと思います。契約書に書かれたことを破れば法律の力が働き、そこから逃れることは困難です。それによって、契約書で約束したことを相手は守るであろうし、禁止したことは行わないであろう、という安心が得られるのです。
 信頼と、契約などの背後で得ている安心は、他者との間において、それぞれ質的に異なる関係性を結ばせてくれるもののようです。

 信頼について理解を深めていくと、信頼は、互いのタイミングを阻害しない、自由な関係性に相性がいいものなのではないかと思えてきました。そしてそのような関係性は、自分で選択するものでもあるのかもしれない、とも思えました。今回は安心と信頼とを比べながら、特に信頼に焦点を当てて考えてみたいと思います。なお、このコンテンツにおける安心と信頼の違いについては、社会心理学を専門とする山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』[1]から学ばせていただきました。

安心と信頼の違い

 安心と信頼とはよく似た言葉に思えます。どちらも、心にポジティブな感情を抱かせるという意味では似ています。しかし、先にあげた契約の例からは、すこし違うところがみえてきました。「契約を結んで安心した」とは言いますが、「契約を結んで信頼した」とは言いません。この二つの言葉あるいは概念には、なにか明らかな違いがありそうです。
 社会心理学者の山岸俊男氏は、日本社会は今後、安心に依る社会から信頼に依る社会へ移っていかざるをえないという考えを示していく上で、安心と信頼の定義をしています。その二つを分けるポイントは、相手の行動によっては自分に不利益がもたらされてしまうかもしれないという、社会的不確実性が存在しているか否かにあるとして、定義を示しています[1,kindle343]。

信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性ゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在しないと感じることを意味します。

安心を生じさせる、社会的不確実性が存在しないと感じる状況というのは、たとえば、終身雇用が前提で解雇が実質的に困難な日本型雇用慣行の社会が一例であるといえます。会社は、自社や社会に大きく背く行為をしない限り解雇はしないので、働き手にとっての社会的不確実性は小さいと言えます。このようにして、社会的不確実性が小さいと感じられたときに生まれるのが安心です。働き手は、日本型雇用慣行の仕組みや制度の論理や頑強さを知るほどに、安心を感じられるでしょう。
 雇用慣行のような社会全体の話だけではなく、ある特定の人間関係やコミュニティにおいても、社会的不確実性を小さくすることはできます。山岸氏は典型的な例として、ヤクザ社会をそのひとつとして挙げています。すなわち、「裏切ったらどうなるかわかってるんだろうな」という報復や厳しい規律があることが前提のコミュニティも、不確実性が小さく安心が生じるというのです。安心と言われると違和感はありますが、仲間の裏切りの可能性が極めて小さいという点では安心なのです。
 ヤクザの例などを出すと安心のイメージが悪くなってしまいますが、決してそうではありません。たとえば、先に挙げた契約という仕組みがあることで、相手の人となりが分かりきる前でも取引きに踏み切ることができ、幅広い人たちと円滑な協力活動をすることができます。また、保険も不確実性を下げてくれるため、万が一の保障だけではなく、普段のストレスも下げてくれて健康につながるかもしれません。
 ただ、一つの特徴としては、個人が規律や制度の中に組み込まれ、比較的強い紐帯で結ばれることで得られるのが安心であると言えるのかもしれません。そして、程度は場合によって異なるのでしょうが、一定程度の自由と引き換えに得られるのが安心であるとも言えそうです。

 それに対して信頼は、相手の行為を誘導したり抑制したりする規律や制度などがない、比較的自由に振る舞えてしまう状況の中でも、相手は自分に不利益になるような行為には及ばないだろうと考えること、と山岸氏は定義します。たとえば、いいアイディアが閃いたときに友達に詳しく話せてしまうのは信頼あってのことかもしれません。アイディアを自分に不利になるようなかたちで利用したりネット上に拡散したりするような、自分にとって不利益になることはしないだろうと考えた上での行為だからです。
 信頼は、知人や友人との個人間で生まれるものというイメージがありますが、世間一般や他者一般に対しても抱くものであるとされています。たとえば、知り合って間もない相手に対してもアイディアを話せてしまえるとすれば、それは他者一般に対する信頼があるといえます。また、ボランティアや地域活動に、不参加による罰則がないにも関わらず参加するのは、困りごとの対処には皆が協力して行うものだという、世間がもつ規範意識への信頼があるからであるといえます。信頼があることで、不確実な環境に飛び込んだり、不確実な状況下でも自分なりに活動に踏み切れたりするのです。信頼は、活動や行為の自由さや活発さを高めてくれる側面があるのだと考えられます。

 こうしてみると安心と信頼とは、性質が正反対にあるもののように思えます。安心は集団の決め事に個人が帰属することで得られるものであり、信頼は個人の意識が集まることで得られることのようなイメージです。
 では、真反対にあるようにも思える安心と信頼に対して、どのように向き合っていけばいいのでしょうか。社会的な制度や慣行などの話が出てくると、個人にとって大きすぎる存在に思えてきます。しかし振り返ってみると、ごく身近なところでも個人として、安心か信頼かの選択をしているのではないかと思えてくるのです。

身近な分岐点

 小学校の頃のマラソン大会で、わたしはいつもある選択を迫られていました。「一緒に走ろうね」という誘いを誰かに言ったり・言われて同意したりするのか、それともそういう声からは距離を置いて一人で走ると決心するのかです。一緒に走ろうとするのは、一人で遅い順位でゴールした場合の孤立感や劣等感が嫌だったからだと思います。順位が低いことそのものではなく、もっと感情的な不利益を恐れていたような気がします。
 一緒に走るという約束は、社会的不確実性を低めることにつながります。小学生にとって約束は強い力をもってます。約束を破ったら裏切り者扱いをされてしまうからです。一緒に走る約束をした友達とは、その場で紐帯が結ばれ、社会的不確実性は限りなく小さなものになります。相手が先に突っ走っていってしまうという可能性は低められ、自分が孤立感や劣等感を抱く可能性も低められます。一緒に走るという約束で得られたのは安心だったのです。

 しかしここで安心を求めて選択したということは、他方では信頼をしていないということを意味するのかもしれません。仮に自分の順位が悪くても、自分に孤立感や劣等感を感じるような反応を周りはしないだろうという信頼があれば、安心を選択する必要はないはずです。
 ただし、これは複雑な問題のようで、信頼とは個人の意思の問題というだけではなく、多分に場やコミュニティの問題でもあるように思われます。自分が不調ながらも頑張ってゴールして、爽やかに「精一杯頑張った!」と言ってみても、仮に順位だけをみてダメ出しをされたりすれば、不確実性に身を委ねてみようという信頼の意識を持つことは難しいでしょう。そして何を評価して讃えるのか、何をいけないことと考えるのかなどは、場やコミュニティの中に育まれていることのように思えます。つまり、信頼を選択するのか安心を選択するのかは、どのような場に居るのかによっても左右されると考えられるのです。加えて、安心と信頼とでは関係を築く上で、必要とされる経験やスキルが異なるでしょう。たとえば信頼に関しては、不確実性が高い中でも信頼できる相手を見定められるかといった能力が求められます。信頼を基本とする環境では、信頼に必要とされる経験やスキルが身につき、ますます信頼を選択しやすくなっていくと考えられるのです。実際に、山岸氏の著書の中でも、他者一般を信頼する人は、信頼できなそうな人がもつ怪しい情報に敏感であるという実験結果も示されていました[1,kindle1429]。つまり、信頼できる人・できない人を見分ける能力が高く、だまされる可能性が低いため、ますます信頼を基本とした行為ができるようになっていくと考えられるのです。

 どのような考えや価値観をもち、どのような行為の選択をするのかというのは、決して少なくない環境の影響を受けると考えられます。しかしそれでも、個人個人に選択の機会はあるのではないでしょうか。
 誰かが先に行きそうになっても留めるようなことはせずに、何か助けになることはないかと考えてみるとか。自分が調子よくゴールをしても、それを他者に突きつけることにならないように心がけるとか。安心ではなく信頼へと向かう分岐点は、振り返ってみると、実は身近なところにもあったりするのではないかと思えました。こちらが信頼の姿勢で接すれば、相手も信頼を返してくれる、かもしれません。そうした積み重ねによっても、すこしずつ信頼は育まれていくことのようにも思えます。
 反対に安心を選択すると、信頼を育む機会を逃してしまうだけではなく、自分とは違う相手のいいところを見つけたり、違うことを理解し合うことによるおもしろさや居心地の良さを感じたり、自分の新しい一面を発見する機会をも失ってしまったりするのかもしれません。誰かと紐帯を結ぶことは、そのときに生まれる自由な一歩を阻害することを意味するからです。

信頼と、多様性や自由

 普段何気なくつかっている安心と信頼とは、実は正反対ともいえるような関係を築くものでした。安心は、比較的明確で固いもので、しかしだからこそ個人の自由度は低められてしまうと言えるのかもしれません。それに対して信頼は、固さや安定性には乏しいですが、その分個人の自由度は高いと言えるのかもしれません。信頼のもとに動く人たちは、契約や約束が前面には立たないので、信頼というある意味では大雑把な範囲で、比較的自由に動くことが促されるようにも感じられました。

 安心か信頼かとは、社会がその性質を帯びているということも、『安心社会から信頼社会へ』の中では著されていました。
 ただ、社会という大きな枠組みの中で一定程度定められてはいても、個人としての安心か信頼かの選択の機会は、身近にあったりするのかもしれません。たとえば伝え方ひとつにしても、強い禁止を示すのか、困っていることを打ち明けて協力を求めるのかは、安心と信頼の分岐点だったりするのかもしれません。
 自分とは違う他者との協調や協力活動を、窮屈ではないおもしろいものにしていくためには、信頼の力を大いに借りていきたいところです。一足飛びに安心か信頼かの選択をしないまでも、身の回りの出来事が安心で成り立っているのか・信頼で成り立っているのかと観察することも、とてもおもしろいのではないかと思ったりもしました。


〈参考図書〉
1.山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)


〈「色々とつながりと」他のコンテンツ〉

(吉田)

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