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【漢詩和訳】されど大河は流れ続ける

 こんにちは、李琴峰です。

 誹謗中傷者・ツイ廃伊東麻紀を相手取った裁判、無事勝訴になりました。しかし、報告記事にも書いたように、こんな裁判は勝っても、本当に空しいばかりです。
 私は一体全体、なんでこんなしょうもない(裁判所にまで「社会的影響力がない」と言われるような)人間のために、時間と金銭を費やしていたのでしょうか。
 もし誹謗中傷に影響されず、穏やかに暮らせていたら、裁判に費やしていた時間を小説と文学にかけられていたら、きっともっといい作品がたくさん生み出せたはずなのに。
 と、本当に悔しくなりません。

 そんな時に思い出す漢詩があります。杜甫「戯為六絶句 其二」です。
 こんな詩です。

【原文】
王楊盧駱當時體、輕薄爲文哂未休。
爾曹身與名倶滅、不廢江河萬古流。

【書き下し文】
王楊盧駱(おうようろらく)は 当時の体、
軽薄 文を爲して 哂(わら)ひ 未(いま)だ休(や)まず。
爾曹(じそう) 身と名と倶(とも)に滅ぶも、
廃せず 江河 万古に流るるを。

【現代日本語訳】
「初唐の四傑」と呼ばれる王勃(おうぼつ)、楊炯(ようけい)、盧照鄰(ろしょうりん)、駱賓王(らくひんおう)の四人は、当時流行っていた文体で詩を作っていた。
しかし軽薄な人たちは文章を書いて彼らをひたすらあざ笑い、そういう嘲笑の風潮は今でも続いている。
あなたがたのような批判者は、たとえ肉体が滅び名を忘れられ、存在の痕跡すら綺麗さっぱりに消え去ろうと、
長江と黄河が永遠に流れ続けるのを損ねることなどできやしない。

 この詩を作った杜甫は盛唐の詩人だから、初唐の時代は彼にとって過去のことです。そんな初唐を代表する四人の詩人に対して、やはり当時は風当たりが強かったのでしょう。軽薄な(つまり思慮の浅い)人々は彼らを批判し、嘲笑っていました。
 しかし杜甫はそんな批判者に対して、こう言います。「お前らの存在が消えた後でも、大河は永遠に流れ続ける」と。
 批判される者の大きさに対し、批判者・嘲笑者のちっぽけさを鋭く喝破しているのです。

 この手の軽薄な批判者・嘲笑者は、今の時代で言うと誹謗中傷者みたいなものでしょう。思慮が浅く、道理を分かっておらず、知性も知識も欠如し、自らの狭い了見でSNS上で勇ましい言葉を発し、著名人を貶す。そうすることによって、あたかもちっぽけな自分自身も「何者かになれた」というな錯覚に陥る。
 SNS上の誹謗中傷は麻薬のようなものだ。そこに存在証明を求めようとする人々は、自分が本当の自分より大きくなれたという気になれる。
 しかし錯覚はどこまでも錯覚です。薬が切れたら――スマホを手放したり、パソコンの前から離れたりしたら――、鏡に映るのはいつもの冴えなく、みっともない自分。そんな真実に耐えられないからこそ、人々は誹謗中傷をやめられないのでしょう。

「爾曹身與名倶滅、不廢江河萬古流」
 SNS上で誹謗中傷してくる匿名アカウントに対して、私は常にこういうふうに思っています。
 爾曹身與名倶滅、不廢江河萬古流。
 爾曹身與名倶滅、不廢江河萬古流。
 爾曹身與名倶滅、不廢江河萬古流。

 たとえお前らの肉体が滅び名前が忘れられ存在そのものが消え去っても、私の名は永遠に流れる大河のように、後世に伝わり続けるでしょう。

 本当に空しく、惨めで、哀れな人間です。

 ちなみに、今読んでいる小説でちょうど私の心境を反映できる一節を見つけましたので、引用します。

人が安全圏から石を投げるとき、その石は大抵下方から投擲されるものだ。下等な生き物と見下しているつもりでも、実際には磔は有象無象より上に設置されているのだ。そこにあるのは死んだって永遠に何物にもならない生き物と、たった今傷を負いながら注目を集めている生き物の差だ。

献鹿狸太朗『地ごく』

 降りかかる火の粉は払わないと、売られた喧嘩は買わないと、という思いで私は闘ってきました。
 しかし、本当にそろそろ前へ進まないといけません。「死んだって永遠に何物にもならない生き物」のために費やす時間は、もう私にはないのです。時間は、私が愛している人たち、私を愛してくれる人たち、そして大切な読者やファンたちのためにこそ、使われるべきです。


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