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自転車にまつわる出会い

 新居が駅から遠いので、ネットで自転車専門店をやっている方から中古の自転車を購入した。今日の午後受け取りに行ったら、Fさんという白髪の優しそうなおじいさんだった。

 新しく購入した自転車に乗って出かけたが、しかし5分も経たないうちになんとチェーンが切れてしまった。仕方なくもう一度Fさんに電話をして状況を伝えると、すぐ様子を見に来てくれると言ってくれた。
Fさんと合流後、自転車を直すために彼のミニトラックに同乗して一緒に彼の店に向かうことにした。

 道中少しあれこれお話をした。私の名前を見て彼は、「中国の方?」と訊いたが、「台湾です」と私は答えた。そこから話が弾んだ。
 奇しくも彼も台湾の縁者で、父親が台湾で生まれたのだという。なんでも、戦前に祖父は専売公社の仕事で(お砂糖を販売していた)台湾に赴任し、あちこち回っていて、父親はその時に生まれた、と。そして母親もまた台湾生まれだった。戦後に祖父と父親は全てを捨てて日本に引き揚げ、Fさん自身は滋賀県生まれだという。

「大変な時代だったんだ」とFさんが言った。「戦争は絶対やっちゃいけないんだ。何百万人も死んだとか想像もできねえ」

 話は八田與一に飛び、自転車の輸出入に飛んだ。「むかし日本の自転車は全部日本製で、高かったけど、大量生産のために生産拠点をどんどん台湾に、最近は中国に移転したんだ。そんで一万ちょっとの値段になった。ほんとは良くないけどね」

 私はこの前読んだ『自転車泥棒』の話を思い出し、「昔の台湾の自転車も、やはり日本の技術を盗んだり真似していたらしいですね」と言った。「『自転車泥棒』という小説があって最近読んだですが、自転車の歴史とか色々書いてあって面白いですよ」
「『自転車泥棒』って、イタリアの?」
「いえいえ、台湾の作家が書いた小説で、最近日本語に訳されてて」
「どこから出てるんだ?」
「文藝春秋です」
「面白そうだな」とFさんが言った。「『自転車泥棒』って、本当に盗んだんじゃなくて、技術を盗んだって話か?」
「いえいえ」と私が言った。「20年前に父親とともに消えた自転車が主人公のもとに戻ってきて、その自転車の軌跡を辿っていくうちに色んな話が出ていて、自転車の歴史の話もあるし、戦争の時日本軍の自転車部隊の話もあって」
「ああ、自転車部隊、マレーシアとか走ってたな」Fさんも銀輪部隊のことを知っていたのだ。「私も読んでみようかな」

 話しているうちにFさんの店に着いた。まず目に入ったのが積み重なった自転車の山だった。その光景は『自転車泥棒』の中のアブーの洞窟を想起させた。自転車の山には、完全そうに見えるものもあれば、チェーンがなかったりタイヤが欠けたり、フレームとタイヤもろとも消えていたりするものもあった。何故かキャスター付きのソファ椅子もその中に紛れ込んでいて、しかもその上に温水洗浄便座が置いてあった。よく見ると自転車の山の間には一人の人間がギリギリ通れそうな細い道があり、家の入口に繋がっていた。トタンでできた狭く古い家でだった。Fさんは買ったばかりの白菜とお米が入ったビニール袋をぶら下げながら家に入っていった。ここに住んでいるらしい。

 暫くしてFさんが道具箱を手にしてまた出てきた。彼は自転車の山の中から一台を物色し、そのチェーンを外し、そして私が購入した自転車のチェーンも外し、2本のチェーンを入念に見比べた。
「こちらの方が太いのかね」と彼は私の意見を訊いた。私にはどれも同じように見えた。「太いとギアに噛み合わないから使えないんだよな」と彼は言った。

 彼は新しいチェーンを自転車に取り付けようと試みたが、やはりうまくいかなかった。仕方なく、自転車の山からもう一台取り出し、素早くミゼットカッターでそのチェーンを切断して外した。そして道具箱から名前のよく知らない道具を取り出し、あちこち叩いたり回したり、きつくしたり緩めたり、色々なパーツを外してはまた取り付けたり、そうこうしているうちにチェーンを自転車のギアに取り付けることに成功した。Fさんはペダルを回してチェーンが回るのを見て、満足げに笑いながら頷いた。
 大学時代の私にとって、自転車は800台湾元くらいで中古品が買えるような安価で、そこに存在して当たり前のもので、その1つ1つのパーツに興味を持ったこともなければ、修理の過程もまともに見たことがなかった。乗れないくらい壊れたら捨てて、また買えばいい。卒業する時にネット通販に出すと、買い手はいくらでもいる。そんなものだった。『自転車泥棒』を読んでいなければ、私は恐らく職人が自転車を修理するところをこんなにも興味津々と眺めることはなかっただろう。

「どこに行くんだい?」Fさんはチェーンに潤滑オイルを注いでくれたあと、私に訊いた。ミニトラックで送ってくれるらしい。それもそのはずで、この店は私の家から結構遠く、こんな寒い中で自転車で帰るのは辛い。そもそも今回の件はFさんに責任があったのだ。

 帰り道、私とFさんはまた少しお話をした。日本で何をしてるか、と訊かれると、仕事です、と私は答えた。どんな仕事? 職場は家の近くなのか? と訊かれ、会社員です、職場は23区にあるのですが、家賃が安いからここに住むことにしました、と答えた。私とFさんは所詮自転車を買う側と売る側の関係性でしかないので、変に興味を持たれるのを防ぐために、作家であることはとうとう言わなかった。

「今おいくつですか?」と私はFさんに訊いた。
「67」とFさんは言った。「日本は今みんな長生きだよな。私の祖父は55歳で亡くなったのに、私はまだ元気だ。最近は人生100年時代とか言うしね。そんなに長生きしてどうすんだって思うよ」
「じゃ、あと33年ですね」と私が言った。
「長いな」とFさんは笑って言った。「でもまだやりたいことがたくさんあるんだ」
「何がしたいんですか?」
「学校を作りたいんだ」
「どんな学校?」
「自転車の学校」とFさんが言った。「自転車の技術が習える学校だ。今は自転車業をやってる人はほとんど60代か70代の人で、あと5年もしないうちにみんな年を取って辞めてくんだ。そうすると自転車の店がほとんどなくなる。自転車が壊れたら修理もせずそのまま捨てて、新品を買う。そんなんじゃだめなんだ」
「もったいないんですよね」
「もったいない」Fさんは頷いた。

 他にも、中国の政治や、台湾の選挙、日本の経済などの話もした。Fさんは年を取っている割にニュースを見ているから色んなことを知っていた。

「中国も日本も、経済が発展してるように見えるけど、儲かってるのはほんの一握りの企業だけだ。一般市民はたいして変わらない。なのに消費税は上がる」
 来年の休日が増える(天皇即位)ことに対しても不満を垂らした。「私からすりゃ、休み過ぎだよ。私は休みなんてないんだから」
「自営業だからね」
「もっと休めじゃなくて、もっと働けと言ってもいいのに」とFさんは言った。

 目的地に着き、Fさんはミニトラックを止めても暫くはドアを開けようとせず、話し足りないらしい。「フェイスブックやってる?」とFさんが私に訊いた。
「店にフェイスブックのページがあるのを知ってますよ」と私は笑って言った。自分のフェイスブックを教えたくない、という意思表明であることを察したのか、Fさんも、「じゃ、もしよかったら是非」とはにかんだ。
 私は車を降り、自転車を引き、Fさんに再三お礼を言ってから、自転車に乗って走り出した。
 自転車のチェーンが切れるという滅多に起こらないことのおかげで、Fさんと話す機会があった。これからFさんとまだ会う機会があるかどうか、私は知らない。

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