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二十年ぶりの再会

 こんにちは、李琴峰です。

 緊急事態宣言解除、県をまたぐ移動解禁、いよいよ日常が戻ってきている感じですが、満員電車もまた現れたと仄聞します。
 私はといえば、最近は仕事の依頼が少ないので、本を読んだり映画を観たり、たまに小旅行に出たりといった生活を送っています。7月に新刊小説『星月夜(ほしつきよる)』が発売されますので、その校正作業もやりつつ。

 久しぶりにまた「漢詩和訳」のエッセイを書いてみようと思います。1回目の「月に問う」も、2回目の「世界の終わりまで愛してあげよう」も、それなりに読まれている感触がありますので、ひょっとしたらシリーズ化して、どこかで連載できるかもしれませんね。面白そうだからコラムを作って連載したい! という雑誌や新聞があれば、ぜひ連絡してください。

 今回は杜甫「贈衛八處士」を紹介します。これもすごく有名な詩で、私は小説『独り舞』の主人公の会話シーンで引用しています。

 彼女は思わず想像した。やっと再会した二人が、夜の酔月湖の畔で風に吹かれながら散歩したり、温州街の入り組んだ小道で書店とカフェを探索したり……小雪は何も我が儘を言っているのではない。行きたい大学に入るために、叶えたい夢を掴むために努力して、何が悪いのだろうか。
「結局……人生不相見、動如参与商、か」
 また嘆くようなことを言ってしまった。小雪の前ではどうしても甘えてしまう。
「縁起でもないこと言わないで。二十年も離れないよ。無為在岐路、児女共沾巾」
「そう言われても、児女だから仕方無いじゃん」
 小雪は彼女の肩から頭を離し、今度は彼女を軽く抱いて、頭を撫でた。二人はそのまま黙り込んだ。少し離れた所の逢甲夜市の喧騒だけが、遠くで木霊していた。空には星も月も見えなかった。
                        ――『独り舞』p.56

 このように、まあ台湾の知的な少年少女にとってこの詩は必須な教養と言えるでしょう。古典好きなら暗誦できて当然です。私も暗誦できます。

 この「贈衛八處士」という題名ですが、「衛八處士」は作者・杜甫の親友で、「處士」とは隠者、隠遁生活を送っている人のことです。つまりこの詩は、詩人・杜甫が隠居している親友にあてて書いた詩なんですが、ものすごくエモいんです。
 それもそのはず、杜甫とこの親友は、実に20年ぶりの再会を果たしているのだから。この詩が作られたのは8世紀の中国で、当然ながらLINEもインターネットも電話もありません。それだけじゃない。杜甫がこの詩を作ったのは、当時の世界で最も栄えていた唐帝国を衰退の道に導いた決定的な動乱「安史の乱」(755-763A.D.)が勃発している最中だったのです。この「安史の乱」は日本にも影響を与えました。日本はたびたび遣唐使を派遣し、中国から色々勉強しましたが、安史の乱が起きたあと唐帝国は遣唐使を受け入れる力をだんだん失い、日本側も派遣の頻度を下げていき、やがて廃止しました。平安時代に「国風文化(≒日本独自の文化)」が発展できたのは、この遣唐使の廃止が遠因だったりします。
 そんな世の中で、友達と一度別れたら、もう永遠に連絡が取れず、二度と会えない可能性すらあるのだから、20年ぶりに再会するというのはまさしく奇跡のようなもので、エモくないはずがありません。
 そのエモさこそが漢詩の醍醐味であり、また(私を含めて)多くの文学好きの少年少女を惹きつける原因だと思います。

 ちなみにこの詩の体裁は「五言古詩」といいます。中国の唐代(618-907A.D.)に新たに制定された詩の体裁に、「律詩」と「絶句」がありますが、これは非常に厳しい制約のある定型詩で、「近体詩」または「今体詩」とも呼ばれます。唐代の人にとっては「近代」「今」できた体裁だからね。
 それに対して、「律詩」と「絶句」より以前に存在していた詩の体裁は「古詩」と呼ばれ、こちらの方が自由です(正確には「古詩」以外も色々ありますが、それは置いといて)。

【原文】
人生不相見,動如參與商。今夕復何夕,共此燈燭光。
少壯能幾時,鬢髮各已蒼。訪舊半為鬼,驚呼熱中腸。
焉知二十載,重上君子堂。昔別君未婚,兒女忽成行。
怡然敬父執,問我來何方。問答未及已,驅兒羅酒漿。
夜雨剪春韭,新炊間黃粱。主稱會面難,一舉累十觴。
十觴亦不醉,感子故意長。明日隔山嶽,世事兩茫茫。

【日本語訳】
人生というのは夜空の星のように、一度別れたらなかなか会えないものだ。今宵は君と同じ蝋燭の明かりに照らされ、一緒に過ごすことができるのは、本当になんて幸運なことなのだろう。若い歳月はあっという間に過ぎ去り、今や君も私も髭と髪の毛が真っ白なおじいさんになってしまったね。ありし日の旧友を訪ねてみると、もう半分は鬼籍に入ったものだから、長嘆息するばかりだ。
このように二十年ぶりに君の家を訪れ、君と再会できるとは、本当に想像だにしなかった。昔別れたとき君はまだ結婚もしていなかったのに、まさか今や何人も子供がいて、行列ができるほどだ。子供たちは礼儀正しく僕に挨拶し、「どこから来たの?」と訊いてくれた。話がまだ終わらないうちに、さあ早く酒とつまみを出しておいで、と君が子供を促したね。
雨の夜にもかかわらず、君は出かけて新鮮な野菜を取ってきてくれて、炊きたてのあつあつのご飯も用意してくれた。「なかなか会えないものだな」と君が感慨深げに言うと、私たちはそのまま酒を酌み交わした。十杯は流し込んだかな。それでも全然酔う感じがしなかったよ。何しろ君と久しぶりに会えているものだから、酔ってたまるものか、ってね。こんな戦乱の世の中だから、明日になると、君とはまた高い山を隔てて、お互い杳(よう)として消息が知れないことになるだろうな。

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