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人生の走り方


(今回の記事は、さやかアシュタールさんの所でコメントしたことを、自分に中でもうちょい整理してみました)


人生の走り方はそれぞれです。
人が走るとしても、色々な走り方があります。

木漏れ日の中を涼しげに走る人や、
鬼コーチにどつかれ罵倒されながら走る人や、
3秒走って満足する人や、
フルマラソン世界記録を目指す走りをする人や、
サボりダリ〜っとベンチで休むのが大半な人や、
フォームを極めて筋連動を意識して走る人や、
ブームやダイエットで他の目的の人や、
千日回峰行の修行として死ぬまで走る人や、
それぞれの選択で走ります。

どれも程度が違えど、走る苦しみは伴い、走るということを体験します(学びます)。


人は人生でそれぞれ苦しんでいます。
走ることの苦しみは千差万別のように、
人生の苦しみは千差万別でありながら、それぞれの走り方(生き方)を選択しています。
苦しみの中で、それぞれの答えや過程やたどり着いた先が変わります。


視点によって自分が、
身体を追い詰める加害者であり、
走り苦しむ被害者である、

同時に相互関係を内包してます。
私たちは、些細な加害者であったり、深刻な被害者であったり、常に両側を同時体験しながら人生を走ってます。
些細な事で、十分体験し満足することもあれば、
激しく追い込んで極限を体験して実感することもあるでしょう。


私たちは自由意思です。
強制のようでも、強制に文句言いながら走ったり、走りを拒否するという「走り方」を選択してます。
それでも、走る苦しみがあるのに、走る楽しさも存在してます。
苦しみと楽しみの混ぜ具合も自由な意思です。

更に、それぞれの走り方と同時に、別の立場になる走り方もしてます。
時に、伴走者であり、コーチであり、背中を押す人であり、止める人であり、邪魔する人であり、観客席にいる人であります。

常にそれぞれが走り方を選択して、その結果があるのです。
そして自由に走り方を選択しなおすことができます。
木漏れ日の中の走りと修行の走りは、同じ走りでありながら、まったく違う走りです。
鬼コーチと選手は、逆の立場で違う走りだけど、同じ走りを体験している。
加害者と被害者の因果応報の関係以上に、直接的に向き合い、そして同じ方向に向かいます。


それぞれの思考通りの実現した走りをしてます。
それぞれ実現した生き方をしてます。


強い意志を伴って選択した走り方も、弱い意志や迷いの中で選択した自覚ない走り方も、どれも走りからは逃れられません。
どんな生き方からも生きるということから逃れられないように。
否定する人は、「そんな考えは認めない」という「走り方」をしてます。
走らないという選択した走り方をしています。


ここまで読んで、さらりとながめて頭に入ってない人は、そんな走り方をしてます。
折り返して読み直す走り方をしても、このまま頭に残らず走りきるのも、自由意思です。


万物は流転している、諸行無常、宇宙は呼吸している、そんな中を、どんな生き方をしているかの選択をし続けています。
生きても死んでも、魂は在り続けています。
魂は走り続けています。

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