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12月2日が大晦日だった年〜明治改暦狂騒曲〜

はじめに

 さて、これを読んでる読者諸氏は太陰暦というものをご存知だろうか?別名旧暦とも呼ばれ、ごくごく稀に我々の生活に思い出したように湧いてでてくる、あいつだ。旧暦の名の通り、かつてわが国では太陰暦が主流であった。そしてそれが太陽暦に変わる出来事があったのだ。通称「明治の改暦」。日本史Bを取っていた方でもそんなのあったっけな?となる類の割合マイナーな用語だと思う。改暦のゴタゴタが、個人的に面白かったので、本記事はそれについて書いていこう。歴史の濁流の中の真砂たる「改暦」を取り上げ、顕微鏡で覗いてみよう!というのが本記事の趣旨だ。これを読めば皆様も、12月2日が唐突に大晦日になったときの備えもバッチリというわけである。

 さて、本編に入る前に。この記事は歴史好きの素人が適当にゆるめに書いているコタツ記事(冬も深まってきましたね)なので、あまり肩肘張らずに読んでほしい。

 時は明治5年11月9日、我らが明治政府はこんな発表をした。
「太陰暦ってさ、2.3年に一回閏月いれなきゃいけなくて非合理的じゃん?季節もずれるしね!だからさ、合理的に太陽暦つかおーぜ、閏年くらいしかルールなくてシンプルだしさ!西洋なんかだとそれが主流なンだわ!じゃあ明治5年12月3日を明治6年1月1日とするんでよろしく!」

斯くして明治5年11月9日、ものの見事に12月2日が大晦日となる年が爆誕したのだった。年末まで一ヶ月を切った状態でのあまりにも唐突すぎる決定であった。

実際に起きた混乱

 当然、こんな発表をいきなりしたもんだから世間は混乱した。先述したとおり、この改暦までは、日本では太陰暦が主に使われていた。公家と江戸の天文方がバチバチしながら暦を幾多も改訂し、民衆は数百年それに従い行事を行ったり農作物を育てたりしていた。いきなりそんなことをしようものならば、世間の混乱は推して知るべしである。
では、どんなことが起こったのか見てみよう。

まず、大打撃を受けたのは当時カレンダーを作っていた皆様だ。当時、太陰暦の複雑さもあって、カレンダーの販売は土御門家(暦を計算して作ってた公家の一族なのだ)に上納金を納めた弘暦者と呼ばれる暦問屋に独占されていた。11月ともなれば当然、もう来年である明治六年のカレンダーをせっせと用意している。当時のカレンダーは、大入りと小入りと呼ばれる日数による月の区別があったため、その表記の仕方もそれなりに凝ったものを作っていた。そこに唐突な太陽暦への改暦だ。せっせと作っていたものが、全て不良在庫にして紙屑という大凡悪夢としか言いようのない大損害が彼らを襲ったのだった。
 では何故、明治政府はこんな唐突な改革を行ったのだろうか。太陽暦にすると言ったものの、まさかの細かい来年の祭日すら決まってない見切り発車で始まったのが我らが改暦だ。なんと、単純に財政難だったからという説がある。明治政府に勤める役人は月俸で給料を貰っていた。そして、明治5年は閏月がある年であり、一年は13ヶ月だったため、彼らはこの年は13ヶ月分の給料を貰うはずだった。しかし、そうは問屋が卸さない。財政難に喘ぐ明治政府はこの改元により閏月を消滅させ、更には「12月は2日しか働いてねえんだから12月分は給料なしね!」とすることで二月分の人件費の削減を行ったのだった。さながらワンマン社長率いるブラック企業である。この年の明治政府は富国強兵に邁進すべく、廃藩置県、徴兵令の準備、太政官制度の改革に追われ、財政難に陥っていた。そのため、あまりにもなりふり構わない手段を使ってでも(少なくとも弘暦者の皆様の破滅には構ってられないほどの)経費削減が試みられたのだった。ちなみに、流石にこれはまずいと思ったのか、後に弘暦者へ補償措置を行っている。明治政府は、給与カットして終わりにしたが、庶民の混乱はそんなに簡単には解決しなかった。古今東西、家賃にせよ売掛にせよ借金にせよ月末締めが多いが、こんな無茶苦茶なことをした結果、それらの支払いは大混乱に陥ったのだった。 しかし、中央政府の雑な改暦の影響は、これだけに収まらなかった。ここで少し地方に目を向けてみよう。
 明治5年とは、本邦で初めて鉄道が開通し、電信を各地に引き始め、郵便制度が始まった年でもある。当然のことながら、地方への情報伝達というのはまだまだ黎明期であり、必然的にこの布告の到着も遅くなる。結果、地方では尚更慌ただしい事になったのは言うまでもないだろう。新潟文書館のホームページに地方での改暦の混乱の一端が伺える一節があったので、引用する。

惕軒は、ひとまず大晦日の12月2日に、新年を迎える準備をし、歳末の挨拶などを行っていますが、やはり違和感があったようです。迎えた明治6年1月1日付には「御改暦」と書き、「正月といわずに一月といい、元日といわずに一日という、愚かにもその理由が未だにわからない」(意訳)と述べています。彼は1月の日付に毎回旧暦を併記し、しまいには1月30・31日を鈴木家独自の大晦日・元日としてしまいました。さらに翌年には、惕軒の住む粟生津村自体が2月1日を村の元日と定めたため、それ以降は、新暦の新年と村の新年、両方の準備やお祝いをしています。この習慣は息子の彦嶽の代にも続けられました。

新潟県文書館HP(https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/1b8446f94c08f7ae67441d7d895601a6/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E4%BD%90%E6%B8%A1%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/%EF%BC%BB%E7%AC%AC%EF%BC%96%EF%BC%93%E8%A9%B1%EF%BC%BD%E6%97%A7%E6%9A%A6%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%81%AA%E3%81%9A%E3%80%80%EF%BD%9E%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%9A%A6%E3%81%A8%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E6%B0%91%EF%BD%9E)より

急な導入の結果どうなったのかと言えば、太陽暦の正月も太陰暦の正月も両方やればええねん!というなんだか投げやりな感じの結論になってしまった。(ちなみに江戸時代後期には、蘭学者たちが集まってグレゴリオ暦の元日を「オランダ正月」として祝ったりして一年に2回正月をやっていたこともあった。
 

 これだけゴタゴタと色々あったが(これらは飽くまで私の雑な調べの中引っかかった記録に残っているものというレベルなので、その裏にどれだけの混乱があったかは推して知るべしである)、時の流れというのは残酷なもので、今では太陰暦そのものがあまり息をしていない。横浜の中華街なんかで2月頃の旧暦正月に爆竹を鳴らして盛大に祝っていたり(中国ではむしろ旧正月の方が盛大に祝うんだとか)、仙台の七夕祭りが旧暦準拠で8月に行われるくらいであらうか。海外に目を向ければ、ロシアでは1月1日から7日までをクリスマス兼新年として太陰暦準拠でお祝いする。
 しかし悲しい哉、我々が太陰暦と言われても最早想像がつかないように、当時の人々も太陽暦がピンとこなかった。更に悪いことに、明治政府はあまり改暦に対して広報活動を行わなかったのだ。それに目をつけた人がいる。我らが一万円札の人こと、福沢諭吉である。福沢諭吉は、自身の知見を活かし、太陽暦とはなんぞやを解説する本『改暦辧』を売り出し、20数万部を売り上げるベストセラーを飛ばしたのだった。一万円札になる人はピンチをチャンスにする商才もあるのだななどと感心する。『改暦辧』は混乱する庶民にとって大きな指針となったのだった。福沢諭吉は勝海舟と榎本武揚に「瘠我慢の説」でイチャモンつけてレスバ挑むだけの人ではないのである。
 福沢諭吉と明治政府に加えて、もう一つ改暦の恩恵を受けたものがある。それは、近代化の象徴とも言うべき鉄道であった。明治5年に新橋ー横浜間で開業した鉄道は、改暦なくしてはまともに運行ができなかっただろう。何故なら、改暦により定時法が採用されたからだ。改暦以前、わが国では日の出ている時間と、沈んでいる時間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられていた。所謂「丑三つ時」とか言われているアレだ。当然のことながら、不定時法という名のとおり、一時間の長さが異なってくる。そのため、当時の人々は割合時間に対してルーズだった(農業をする上では不定時法は便利だったとのこと、)。しかし、それでは鉄道は運行できない。不正確な時間での運行は事故に直結するので、死活問題だったので、鉄道のみは定時法の時刻表を作成していたのだった。そのため、不定時法の中で、唯一定時法で動く鉄道という異様な状態であったのだ。それが解消されたのは、鉄道の普及においてはとてもプラスなことであり、ひいては日本の物流の発展につながることであった。
 他にも、改暦のせいで嫁入りの日を間違えただの色々とエピソードがあるが、そろそろ文字数もすごくなってきたので割愛する。

まとめ

 さて、ここまで殊勝にも読んでくれた読者諸氏は、この出来事が歴史の教科書なんかたもなんだか影が薄いのは何故だろうかと思うのではないか。改暦とはすなわち、時間の捉え方の変更であり、それは生活様式の変更を余儀なくされることに直結する。それは単純に、改暦なんか目じゃない改革をバシバシ明治政府がやってたからである。内政だけに目を向けても、廃藩置県に鉄道敷設、徴兵令、これらは全て明治5年前後に行われたことだ。明治5年の明治政府は、トップ層が ドキッ!岩倉具視と一緒にワールドツアー!津田梅子もいるよ!こと岩倉使節団として欧米に長期間行ってしまったため、留守番政府をして「鬼の居ぬ間に洗濯」という言葉が残るくらいには行政改革を割と好き放題やっていたのだ。(改暦についても、岩倉使節団は帰ってくるまでつゆと知らず、表敬先の欧米で旧暦準拠で正月祝をしていた。)
 今日は令和5年12月2日、100年以上前の明治5年12月2日大晦日の混乱に思いを馳せていただけたならば、筆者としては嬉しい限りだ。ここまで読まれた諸氏ならば、明日から1月1日ね!などと血迷った発表が出たときとうすれば良いかわかるだろう。とりあえず、先人の知恵に倣って正月を二回やれば良いのだ。



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