7章【2】 信じ込んでみること

 誰かから何かを学ぶときには信じ込んでみる必要がある。疑いながらだと、教えてもらってもなかなか理解ができない。理解したと思い込んでも、それは頭で理解しただけで、教えてくれた人の感覚が分からない。だから、教わるときは誰よりも騙されやすい人間になろうとする。恐る恐る、それが正しいのかどうかを確認しながら学ぶようなことはしない。

 教えてくれる人に同調して、その人がどのような感覚でその技術を行っているのかを捉えてみる。そうすると、そこにどれだけの集中力、純粋な思いを注いでいるのかどうか、あるいはそうではなく、集中力や思いのない偽りのものであるかどうかを感じられる。もちろん、そのとき感じたものが真実だというわけではないが、できる限り同調して相手の感性を受け取ろうとする。

 それはある意味、恐る恐る疑っている人よりも、その人を疑っていると言ってもいい。相手がどれほど純粋な感覚をもってその物事に取り組んでいるのかを疑っている。それを感じ取るために、相手の感覚に近づいていき、相手の感覚を信じ込んでみる。そうして、相手と同調できればできるほど、嘘があるときは、その人の中にある嘘が見える。それは、

「この人は取り組んでいることに対して集中してないように思われるな」

 というような違和感として感じられる。反対にその純粋さに圧倒されたときには、

「こんなに物事に集中することができるのか」

 と、未知の感覚に襲われて涙が流れることもある。

 学習をする、技を盗むということは、その技術者の感覚に潜り込むことだ。潜った深さだけ、得られるものがある。その代わり、危険なことでもある。潜ったまま帰ってこられないことだってある。その先生の言うことだけが正しいと思って、それ以外のことを聞く耳を持たなくなってしまうこともある。そうなると、その先生が自分の人生を救ってくれるかのように依存してしまう。そのときは、新興宗教に没頭するのと同じ状況である。しかし、仕方ない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、である。

 僕の友人にさまざまな新興宗教に潜入した人がいる。彼はその新興宗教を知るために完全に洗脳されるようにしていたという。彼は必ず、その教団のところに行く前に、机の中に手紙を残していた。教団のところに行く前に自分が感じていることを言葉にしておく。そして、帰ってきたときにその手紙を見て、どれだけ自分が洗脳されたかを知り、元に戻るというのだ。

『あなたは、なぜ、つながれないのか:ラポールと身体知』より)


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