見出し画像

4559円でベランダに噴水を作った話、そして瞑想

 この夏、自宅マンションのベランダリフォームをした。掃除に不便な重たいウッドデッキを撤去して、かわりに軽いタイルを敷いた。植木屋さんに鉢植えを剪定していただき、全体的にこざっぱりとしたしつらえとなった。

 リフォームにあたり、どうしても導入したかったのが噴水だった。私はもともとペルシャ庭園の大ファンなので、もし戸建てに住んでいたら、庭には水路と噴水とあずまやを作り、周りには薔薇、ジャスミン、無花果、石榴、レモンなどを植えていただろう。狭いマンションのベランダではどれも無理だが、せめて噴水だけでも欲しい、でも水道も電源もないし、どうすれば…と思っていたところ、イラン人の友人から「ソーラーパネル式噴水」なるものがあると教わった。さすがイラン人、日本に住んでいても絶対に噴水は欠かせないのだな、と妙に納得しつつ、早速ネットで注文した。1999円だった。受け皿は「スタンディングバードバス」を買う。要は足つきの水盤だが、軽量で持ち運びのしやすいものを選んだ。こちらは2560円。ということで、しめて4559円で、ベランダ噴水は完成した。

 水盤が到着する。早速水を入れ、噴水のポンプ部分を入れる。ソーラーパネルはベランダで日光が一番当たる部分に設置した。我が家はもともと鳥どもが多数訪れるので、出来たてほやほやの噴水に便をされないか警戒していたが、今のところ被害はない。少しほっとする。
 ソーラー式のため、太陽が出ている時は調子よく、それこそ水盤からあふれるほど水が噴出するが、少しでも日が陰ると途端に間歇泉のようになる。太陽が完全に隠れれば止まってしまう。我が家は東向きのため、午後2時か3時くらいまでで営業終了だ。稼働しているのは夏場で7〜8時間といったところだろうか。期待していたよりも時間は短かった。

 …それでも噴水は魔法だった。私はもう、完全にダメ人間になってしまったのだった。

 以前読んだ高村友也さんの『自作の小屋で暮らそう Bライフの愉しみ』(ちくま文庫、2017年)の一節を思い出す。高村さんが山梨県の雑木林に建てた自作の小屋に、薪ストーブを導入したくだりだ。はじめはメンテナンス的にもコストパフォーマンス的にも薪ストーブは不便だと思っていた高村さん、ところが実際に使ってみると…

(前略)寒い冬に部屋の隅で薪ストーブがコトコト音を立てていない生活など、火ばさみで薪をつつく必要のない生活など、もはや考えられないのである。あの生の火の魔力に魅了されてしまったのだ。ああ、筆者は馬鹿になってしまった。

『自作の小屋で暮らそう Bライフの愉しみ』(ちくま文庫、2017年)

 まさにこの状況だった。ただ水が上がり、落ちてくるだけなのに、噴水から目が離せない。ふと気づくと窓辺にへばりついたまま何十分も過ごしている。線香花火の消える直前のような水の落ち具合を、ひたすら見続けるしかないのだ。
 火の魔力と同じように、水にも魔力がある。それを初めて思い知ったのだった。

☆☆☆

 雲から太陽が顔を出す。たちまち噴水が勢いよく上がる。と思うと風が吹き、また少し日が陰る。すうっと水の高さが下がる。その繰り返しをずっと見ているうちに、心に起こる感情が同調していく。ああ、嬉しい、水が上がった、ああ、残念、水が出なくなった…。あれ? 心の中にも噴水があるじゃないか。
 そう気づいた時、なんだか嬉しかった。実は私は6年前からテーラワーダ仏教の瞑想に取り組んでいるのだが、心のうちに感情が起きるのを静かに観察するという、そこでの教えが実感できたからだ。
 太陽光線と、ソーラーパネルと、ポンプと、水。この四つの条件が重なった時、その条件に見合った分だけ、噴水が噴き出したり、噴き出さなかったりする。感情も同じだ。持って生まれたDNAと、生きてきた環境と、体験と、現在の状況。その全ての条件が重なった時、それにふさわしい形で感情が生まれたり、生まれなかったりする。ある意味、物理現象なのだ。だから、怒りを無理に抑えようとしても、愛せないものを無理に愛そうとしても、それは理にかなうことではない。自分にできるのは、ただ穏やかに、冷静に、観察することだけ。観察していると、やがて感情は必ず過ぎ去る。3時になれば日が陰って、噴水がおしまいになってしまうように。

 そしてそのように考えると、喜びも悲しみも、どちらも感情という点では等価値に思えてくるのが不思議だった。心の中のソーラーパネルに太陽光が当たり、噴水が出ているだけなのだ。
 喜びと違って悲しみや怒りは良い結果を生まないし、第一身体にも悪いと思い、なるべく押さえつけようとしてきたが、こうした一見ネガティブに思えるような感情が起こっても、巻き込まれず、ゆったりと構えて見てさえいられれば、過度に恐れることもないのかな、と考えたりもした。

 噴水に対すると、「観察者」としての自分の輪郭が、少しずつ確かなものになってくる。大げさかもしれないが、私にとって噴水を見ることは、明らかに瞑想の別バージョンであり、人格の成長を助けるものに思えたのだった。

 とまあ、そんなわけで、今日も明日も、家にいる限り、朝から噴水を見ずにはいられない私である。
 猛暑が終わり、秋の美しい日差し、透き通った光がベランダに降り注ぐ日が待ち遠しい。そうしたら窓を開けて、水音も楽しもう。水盤の周囲に置いた青いルリマツリの花も、赤いランタナの花も、まだまだ咲くだろう。小さな小さなペルシャ庭園を前に、私は噴水と自己の内面を見続ける。やがて冬が来て、春が来て、夏が来て、また秋が来る頃、少しだけでも心の落ち着きが増しているといいなと思う。



 
 

 

  

 

   

 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?