(七十三)元禄時代の俳句を鑑賞しよう

柴田宵曲が書いた『古句を観る』(岩波文庫)という俳句解説書がある。解説文によると、「元禄時代の無名作家の俳句を集め評釈を加えたもの」とある。
 宵曲子は元禄時代の佳句、月並の句を取り交ぜて選び出している。その方が、読んでいて面白いからである。もし、江戸時代の佳句ばかりを選んで、評論していたら退屈な解説集になっていたであろう。宵曲子はその事を考えて、句を選定していたと思われる。
 さて、それでは、当方の目についた句を紹介していく。彼の解説を取り入れて、その優れた解説も味わっていこう。
・青竹の神々しさよ恵方棚 遅望
  宵曲子は言う:「青竹の色ほど鮮麗な清々しい感じのものは少ない。(中略)恵方棚の青竹も、清らかな灯火、供物その他に対して別個の趣を発 揮している。真新しい青竹こそ新年を飾るに相応しい。
・春雨や桐の芽作(おこ)る伐木口(きりこぐち) 本好
  宵曲子は言う:「根本から伐った桐の株に新たな芽を吹いて来る。(中略)春雨は静かにこの伐株の上に降る「伐木口」とあるがために、その木口も鮮やかに浮かんでくるし、芽作る新たな勢いの籠っていることも想像される。」
・春雨や障子を破る猫の顔 十丈
  宵曲子は言う:「障子の破れから猫がぬっと顔を出す、というのでは平凡である。締め出された障子の外から、猫が紙を破って入ってくるというところに面白みがある。」その通りである。春雨に打たれた猫が障子を破ったのであろうが、それも平凡である。当方は思うのであるが、「春雷や障子を破る猫の顔」というのはどうであろうか。
・行燈の一隅(ひとすみ)明(あか)し春の雨 紫貞女
  庭に面した部屋の外では、春雨が静かに降っている。部屋の中で、作者は一人黙って、じっと部屋の隅に置かれている一つの行燈を見つめていたが、ある瞬間、我に返ってみたら、行燈のあたりがやや明るい事に気づいたという状況ではないかと想像する。
   この句はただそれだけの句である。作者が何故、ぼんやり座っていたのかは問うまい。
   なお、宵曲子は言う:『女流の句であるから「イチグウ」と読まずに「ヒトスミ」と読むべきかと思う。』
・白梅の月をささげて寒さかな りん女
  一幅の絵を見るような句であるが、陳腐な句でもある。「月をささげて」とは、梅の枝の下に月が見えるという意味である。梅が咲いていることから早春の事と思われる。
・竹伐って日のさす寺や初紅葉 吾仲
  竹林の中に立っている寺の竹を伐って、寺の本堂や紅葉に太陽が当たるようになったという意味であろう。初紅葉とは、まだ紅葉の紅の色が濃くなかったり、緑と紅の二色の葉も有ったりしていることを述べている。それが、濃い紅一色より新鮮に見えるのである。
・一つ二つ星のひかりや秋の暮 稚志
(二十九)「見渡せばを」句頭にして読む を参考にして頂きたいが、秋の暮を詠った有名な歌として、
  見渡せば花も紅葉もなかりけり 
    浦の苫屋の秋の夕暮
がある。秋の夕暮れは寂しいというイメージを与えているが、この句はそうではない。暮れなずむ風景の中に、星の光がはっきり見えるのが力づけてくれる。
・又咲けるいばら薔薇も後の月 荊口
植栽のことはよく知らぬが、薔薇には、返り咲き、繰り返し咲き、四季咲きが有り、年に二度以上の花をつける品種があるらしい。「又咲ける」とはこれを意味する。陰暦8月にも花を見たが一月後にも二度目の花が咲いたのを見たとの意味と考える。
 宵曲子は次の様に評価する:「茨、薔薇の返り花が珍しいだけにではない、後の月の句としても確かに異彩を放っている。」
・晴れきるや光に曇る月の影 旦藁
  晴れきった、つまり雲ない夕空に皎皎たる滿月が出ている。しかし、その月の中に隈が見えるという意味である。月が放つ清らかな光に隈があることを表すのに、「光に曇る」いう語を用いた。作者は隈があるのをよしとしたのであろう。宵曲子はこの語を「言い得て妙である」と評している。


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