「能力主義ゲーム」から抜け出せ


そもそも「この人は能力が高い」「この人は能力が低い」という言葉に違和感がある。
今この瞬間、偶然にも我々は資本主義社会、というゲームに強制参加される時代に生まれてきた。言ってみれば生まれた瞬間から好きも嫌いもなく全員が強制的にバスケをさせられる世界と同じだ

生まれて数年もすればバスケ養成所(学校)に放り込まれ、親からも先生からも社会からも常に比べられる。本当は単に向いていないだけなのに、バスケのできない自分は努力が足りない怠け者だという呪文にかけられ、自信を無くしている。

本当はサッカーや手芸、魚釣り、詩を書くなんてことをやれば楽しくて仕方なくて、誰よりもいい仕上げができる能力にもかかわらず、この人たちはやがて社会、というバスケのプロリーグに残酷にも放り出され、「無能な人」としてのレッテルを貼られて人生を終えていく。

背が高い人や筋力のある人、機敏な人は高い得点を挙げられるが、そうで無い人は「私は盆栽がうまい」「私はペットを可愛がるのが好きだ」と言ったって、バスケの世界ではほぼ何の役にも立たない。

同じことを私たちはこの「資本主義ゲーム」の中でやっていないか?
- [ ] 仕事のレスポンスの早い人
- [ ] 時間が守れる人
- [ ] ミスの少ない人
- [ ] 営業が得意な人
- [ ] リーダーシップのある人
この人たちはすごいのかもしれない。
資本主義ゲームの中では,だ。

メンタルゲームのぶたいでは日本一のDaIGoさんだってボクシングのリングに上がれば何にもできないはずだ。ゴングが鳴った瞬間、待ったなしでボコボコにされる。

私からすると、これらの見下しは、バスケの世界で「背が高い」「ジャンプ力がある」というひとたちを褒めちぎっているにすぎず、人としての「脳力が高い」なんてこれっぽっちも思わない。

この、狭いけど広くて強制力のある恐ろしい奴隷的ゲームの中に、生まれた瞬間から放り込まれ、「単にこのゲームの中で得意なことが偶然ハマった人」を「人として能力が高い」ともてはやし、そうで無い人たちを「努力が足りない」「やる気がない」と蔑むのはいかがなものか?

サッカー選手が卓球選手をフィールドに呼んで「蹴るのが下手だ」と馬鹿にしているだけにしか見えない。

仕事ができないからなんだ?
報告ができないからなんだ?
ミスが多いからなんだ?

単に資本主義ゲームに向いて生まれた人が得意になっているだけにしか私には見えない。

盆栽が好き、動物が好き、性格が内向的でゆっくり考えるのが好き。
全てはその人が持って生まれた能力なのだ。
ただ、資本主義ゲーム内では、「それは趣味だ」と一刀両断されてしまうだけの話で、そのゲームから出れば、イーロンマスクだって一瞬でボコボコにされる可能性はある。

このゲームであなたはまともに戦うのか?
それとも自分の人生を生きるのか?

ほぼ全世界がこのゲームの参加者となっている現代では、そこから降りることは難しいかも知れない。極端なことをしろ、と言うつもりもない。

しかし盲目的にこのゲームに人生をかけて嫌々参加し続け、時間と体力を消耗し続けるのか?

「資本主義ゲームが得意な人はどうぞ。私は絵を描きます。詩を書きます。歌を歌います」と勇気を持って言える人が少しずつ増えて行く世界にしていくことが私の能力の発揮場所だと思う。

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