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小説『あれもこれもそれも』3-8

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
story 3. 時の木陰にて -8

「それってもしかして彼女とか?」
 彼が指輪をしていなかったので、とりあえずそう聞いてみた。すると、にやけた口元を一切崩すことなく、「ううん。彼氏」という短い返答が返ってきたのだった。
——ああ、そうか。そういうことか。
(前話)


 私はこの短い時間、どういう表情をしていただろうか。嫌悪感情や差別意識などは持ち合わせていないつもりだったが、それは今の社会で要求される道徳観に厚く上塗りされたものかもしれない。もしくはひと昔前に平等を唱えていた博愛主義者と、同じような顔を強制させられていたかもしれない。
 これまで認識していた森井くんと、今ここにいる彼とのギャップが目の前に提示され、見たことのない物質が迫ってくるようで、ただただ圧倒された。そして、その詳細を誰も説明してくれないことで、途方にくれた。内に沸き上がる多くの感情のほとんどが二次的、三次的なもので、何が本質なのか自身でもよく分からない。
 ただおそらく一つだけ本質に近い感情を挙げるとすれば……森井くんの彼氏を羨ましいと思ったことだろう。

「ごめん、イヤだった? こういう話」
 森井くんは表情を崩さないまま、私の顔色を伺ってくる。
「あ、ううん。大丈夫」
 ふいに自分の口から滑り落ちた『大丈夫』という単語。自己嫌悪が胸を刺す。

 これをきっかけに、私の意識は高校時代へと遡っていった。確かに、彼に浮いた噂はなかった。誰を好きとか可愛いと言っていたなどの話も聞いたことはなかった。でもそんなことはクラスの男子の半分以上に当てはまることだ。その彼らのほとんどは結婚したり彼女がいたりするのだから、きっとあの頃には一切分かり得なかったのだろう。
 私は木漏れ日のゆらめきに見せられた幻影を、長い間心に大事にしまっては時々取り出していたのだろうか。優しい人は、それもまた本物と呼んでくれるかもしれない。だが、私にとっての彼は恋の対象だった。それなのに同性愛者としての彼は、初めて私の目の前に現れた。今、森井君は初めましての人だ。そう考えると、これまでの自分がだいぶ滑稽に思えてきた。変わるも何も、私は森井君のことを初めから知らなかったのだ。

「もしかして高校生のときから?」
「うん、そう」
「も、もしかして誰かと付き合っていたりした?」
「世界史の楢崎とね」
 もう開いた口が塞がらない。
 私の好きだった人が同性愛者で、それは仕方ないにしても、クラス全員から忌み嫌われていたハラスメント教師と恋仲だったなんて。どこをどうしても、私の想いが実る見込みはなかったのだ。
 一度天を仰ぐ。そしてもうこの際と思い、ずっと聞けなかったことを聞いてみることにした。
「夏休み明けたあとに急にそっけなくなったのは?」
 彼は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに諭しなだめるような表情を浮かべた。
「だってさ、森田さん多分、俺のこと好きだったでしょ? あの頃は先生と別れる別れないで揉めていたり、進路で悩んでいたり、自分のことを受け止めるのに精一杯でさ。人の好意なんて受け止める余裕が全くなかったんだよ。そっとしておいてくれ〜って」

 ……そよ風が吹き抜ける庭の木陰には、あまりに違う世界が広がっていたのだ。きっと時間や空間やコミュニティに規定されるものではなく、もっと精神的な、認識や指向によって決められる世界が。たとえ同じ時間を生きていて、例え傍にいて同じ空気を吸っていたとしても、同じ世界を生きているとは限らない。
 そしてこの時、ふいとある考えに達した。それは、彼が卒業後に行方をくらまして、私たちの目の前から姿を消したことを、簡単に説明してくれるようだった。
 もしかしたら森井くんはずっと昔から、そういった〈世界に対する疑念〉を知っていて、ひとり向き合ってきたのかもしれない。彼はその疑念を追求するために、彼の世界ごと引き連れてどこかに行った。そしてその領域はしばらくの間、私たちの世界と一切交わることがなかった。

 しかし森井くんは今やちゃんとここにいる。姿形もあの頃とほとんど変わらないままで。だから今のこの時間くらいは、互いの世界を共有していると信じたい。
 言葉に詰まったわけではない。ただ多くのことを納得してしまったから、言うべきことがなくなった私は、すっかり黙り込んでしまった。

「で、俺の話はもういいから。
 今は何かうまく行ってないの?」


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#小説 #詩 #エッセイ #あれもこれもそれも #時の木陰にて

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