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自作は面白くなくっちゃね 【エッセイ】

自画自賛と自己卑下についてのお話。

いま、素晴らしい絵師さん(細村誠さん)とタッグを組ませていただき作業をすすめている。共通のフォロワーさんは既にご存知かもしれないが、拙著『葬舞師と星の声を聴く楽師』にイラストがつく。

で、絵師さんが見せてくれる試作が毎回素晴らしいものなので、「どうしますか?」と聞かれても「もうこれで素晴らしいです!!」としか返しようがない。

僕みたいな絵素人が注文なんておこがましいという気持ち、せっかく相談や注文の機会を与えてもらってるのだから何か言わなくてはという気持ち。両者の葛藤の末に捻り出した言葉を、絵師さんは的確に汲み取ってさらに良い絵を差し出してきてくれる。

こんなに良くしてもらって本当に有難い。
でも果たして自分の作品にそれ相応の価値があるのか?と、ふと不安になり、自作を1話からまじまじと見直してみた。
……すると、これが割と面白いのだ。割と面白い、少なくとも自分にとっては。

小説作品の初めての読者は著者である、とはよく言ったもので、小説はまず自分を楽しませるために書かれる。1万人の読者を想定したところで、初めに当てる「自分の物差し」から逃れることはできないのだと思う。
(その物差しと1万人の公約数が適合しなければ、人から面白いと言ってはもらえないのだが、今回の本題ではないのでやめておく)

創作家は不遜を抱えながらそれを表には出さないようにしている。それは既に世に出ている作品を前にして「自分にはもっと面白いものを創れる」とか「世の中に面白いものがないから自分が創ってやる」といった傲慢だ。かなりキツイ言葉を使ったので拒否反応が出るかもしれないが、ここに(自分にとって)を挿入した時に、完全に否定するのも難しいだろう。

逆に、だ。自分にとって面白いものを目指さないとき、つまり1万人の公約数を目指すとき、作品はどうしても空虚になる。否、空虚に陥る。作者の抱える空虚を表現したものと、読者を想定して陥る空虚は、驚くほどにベツモノだ。

それは、もっとも多くの学生に読まれることを想定して書かれた本が「教科書」であり、無味無臭で、物足りなくて、言葉足らずで嘘が混じっていて面白くないことにも似ている。最近の教科書事情は知らないので、変化していたらすみません。

話を戻そう。『葬舞師と星を聴く楽師』を読み直して、嗚呼あの頃は自分を楽しませるためにひたすら臥薪嘗胆していたんだな、と感じた。今作業を頑張っている絵師さんに負けないくらいの試行錯誤があったと、誇れるものに違いなかった。

ところが新シーズン『葬舞師と縦谷に夢む双生舞師』になった途端「陥りたくない空虚」の端がハッキリと見えてしまったのだ。
危機感を覚えている。同じシリーズで自画自賛できるものと自己卑下の対象になるものが混在してしまっては、目も当てられない。

あくまで理想論。現実には人はいつでも全力では頑張れないし、日常生活・社会生活の片手間に創作することがデフォルト。作品の最低クオリティがその人の本領。そういう風に思っている。
ただそうだとしても、自分がその作品を愛せないのでは、つまり「へっへー、自分にとって面白い作品を創ってやったぜ、世に出してやろう!」と驕り高ぶれないようなら、その創作は虚しさから逃れられない。

試練だ。生活の変化により、読書や芸術鑑賞や創作に当てられる時間が激減した。そんな中で、どうやったら「書いてて楽しい」「読んで自分が楽しい」を達成できるだろうか?
理想と現実の折り合い。我が物が賞賛と卑下の間で揺れ動くのは辛いところ。(とはいえ基本姿勢は現実的かつ楽観的でなのでご心配なく)

もし「自分はこうしてるよ!」などのご意見をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

それでは、また作品で会いましょう。

なんだか暗くなってしまったので、ほんの少し宣伝を。なんだそりゃ?

自画自賛した『葬舞師と星の声を聴く楽師』はコチラ。イラスト楽しみにしていて下さい!

空虚になることを恐れている新シーズンはこちら。笑

あと12月にnote神話部がめでたく3周年を迎えます。今年も盛大にお祭りやります!

note神話部で連載していた中編小説『花の矢をくれたひと』はこちら。

#エッセイ  #日記

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