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ヘアオイルのある生活と詩 【エッセイ】

髪を切りに行けなくなった。長らく通っていた都内の美容院の予約を「初めて」キャンセルしたのが1ヶ月前のこと。仕方なく自宅付近の美容院に行こうかと思ったのが2週間前のこと。しかしそうこうしているうちに緊急事態宣言が全国に拡大され、さらに行きづらくなった。美容院は休業要請の対象となっているとはいえ、散髪は自分の生活の中で優先度が低い。在宅じゃない仕事をしている限り、自分がウイルスに感染してばら撒いてしまうリスクは否定できない。そんなことを考えていると、どうも足が向かない。

ここ数年はずっと短髪にしていた。ひと月半も経つとハチが張ってくる……と言って伝わる人は多くないらしい。ハチというのは耳周りのこと。頭部を正面から見た時に漢字の「八」の字を描く部分だ。髪が伸びてくるとここが横に広がってくる、その現象を「ハチが張る」と表現する。ハチ張りは中学生の頃から気にしてきたが、ちゃんと名前が付いていて、悩まされている人が少なくない、ということも、ここ数年で知ったことだった。

ウイルスの動向については、あまりに漠然とした不安と希望を抱えるのみである。ただ危機管理の一環として、終息まで年単位かかることや、たとえ終息しても生活や生き方がガラリと変わってしまうことも想定している。
今の僕にできることは「髪を伸ばす」ことである。月1回の散髪という社会生活は、この時勢において不要不急のものになっていく。僕にとっては。

男性なら、と一括りにできなくなって、どれくらいの年月が経っただろうか。僕が子供の頃は髪を伸ばすことが許されていなかった。中高校生くらいになると、テレビの中の人や楽器を背負う人の間で許され始めたが、偏見が消えたわけではない。学校生活の中で、髪を伸ばすという行為は、一部のイケメンに許されていたのみで、それ以外の人がやると「キモい」と同義で使用される「ナルシスト」という言葉で非難されたものだ。

話が逸れてしまった。男性なら分かるかもしれないが、短かくなればなるほどヘアケアを怠りがちだ。丸刈りの人は洗顔料で頭皮を洗う、五分刈りの人はドライヤーを使わない、短髪の人はトリートメントを使わない、と言った具合に(あくまでイメージ)。僕もヘアケアを怠ってきた。艶や潤いなどなく、伸びた毛先は使い古した筆のようにパサパサだ。これでは髪を伸ばせないと判断した僕は、徒歩圏内のドラッグストアに向かい、ヘアオイル(洗い流さないトリートメント)を買ってきた。特に迷いもしなかったのは、今使っているシャンプーが女性用のもので、同じシリーズからヘアオイルも出ていたからだ。ヘアケアを散々怠ってきた僕なのだから、こんな選び方で充分だ。新しいアイテムを買うのにアットコスメを見て吟味する、というのはあまりに滑稽だろう。

髪を伸ばすと決め、ヘアオイルの代金を支払い、そして実際に髪につけてみる。その瞬間……himawariが香り立つ瞬間に、自分の中に新たに生まれるものがある。それはかつて「女性的」とか「中性的」とか言われたもので、今の時代では一括りにできないものになっている。別にオイルを付けて「うっふ〜ん」「あっは〜ん」な気持ちが湧き立つわけではない。それはそれで面白いと思うんだけどね(笑)。髪だけでなく、心の中に隠れていた渇いた大地に泉が湧いて潤すような、そんな満たされる感覚があった。

不思議なもので「詩」が……「詩らしきもの」が生まれてくるようでもあった。

散文だし取り立てて詩的な表現をしているわけでもないので、「詩らしきもの」としておく。取り止めもない雑感が形を崩して書かれたようなものだ。でもまあ、このユニセックス感は僕の文章の特徴の1つだったよな、ってふと自分を思い出す。そして、自分?……自分の文章って何だろう?とも。

昨日、noteやTwitterでお世話になっている雨音の詩人、佐々木蒼馬さんがこんなことを書かれていた。

よく「ポエム(笑)」と中傷されることがよくあるが、これは書き手の「私」と、文面の「私」が100%一致しているから起こる問題だとぼくはいまは思っている。

蒼馬さんのこの洞察に僕は反論の余地を持たない。蛇足的に例えをあげるなら「死にたい」と書いたら心配DMが来ちゃったり、ただ共感した人が一緒に死にたくなっちゃうのはポエム。作品の一部の要素なんだなと取り込まれるのが詩なのかもしれない。そしてポエムはその著者性によって、共感する以外の読者を完全に疎外する。ポエム(笑)と非難される理由は、この疎外にあるように思う。一方で詩には共感だけではなく、共振が必要とされる。共感よりもずっと複雑な何か、読者の中に生まれる心のうねり……のようなもの? しかしそれは何なのか、どうしたら達成できるのか、まだ僕には答えを出せない。

先ほどのTwitterでの僕の雑文がポエムなのか詩なのかと聞かれたら、ポエム的だと答えると思う。26時*理論なら、やはり著者性が際立っているからポエムなのだと思う。そこになぜ「的」を挟むかというと、自分の中の複数の人格が共振したところに生まれた文だからだ。ユニセックスの幅で行き来する自分、少し後ろにはかつて男性的と呼ばれた自分が立っているし、そのさらに奥には女性的と呼ばれた自分が見え隠れしている。そんな個人の分裂した人格なんて知ったこっちゃねえよ‼︎って人にはどこまでもポエムだろうし、自分の中に複数の自分を抱える人にはもしかしたら僕の感情とは別に共振する余地があるかもしれない。詩って難しいね。でも楽しいね。

*26時は佐々木蒼馬さんとコンノダイチさんが主催する詩のサロン

ところで、最近書簡のやり取りをしている永田さんもユニセックスについてYouTubeでお話ししていた。女性寄りのイメージの服を選んでしまう、カッコいいじゃなくてカワイイ服を選ぶ、そして女装のススメについても(誤解のないよう、詳しくはぜひ動画を見てくださいw)。そこで「性の相対化」という言葉を使っていて、僕はなるほどそうだなと思う。さっき僕が、後ろにいる自分とか奥にいる自分とか、ぐちゃぐちゃ言っていたことを、永田さんは的確な一語で言い当てる。

noteで知り合って、そこそこ長くやり取りをしている永田さんだけど、実は面と向かってお会いしたことはない。もしそんな機会が得られるのなら、互いのユニセックスの違いを感じられるのかもしれない。そうだったら面白そうだ。早く収束しやがれ。

長くなってきたけれど、もう少しだけ。

女装は癖のない人にとっては非日常かもしれないけれど、ヘアオイルはこれからの僕の「生活」になっていく。最近僕は詩のリハビリの他に俳句の修行をしているのだが、その中で見つけた高浜虚子の言葉・比喩が、僕の執筆生活と響き合った。

句なり歌なりは其生活の流の上に浮いて居る泡である。比喩をかえて言えば生活は地下を這うて居る竹の根である。俳句や和歌は地上に生えて居る竹である。更に比喩を代えて言えば、生活は鐘である。いつでも打てば鳴るべき鐘である。俳句や和歌は時々鐘木が当って鳴る其音である。
『覚えておきたい虚子の名句200』
角川ソフィア文庫

泡を生むには、竹を刈るには、鐘を鳴らすには、つまり詩歌を詠うには、まず生活が必要だということ。そこに「豊かさ」がなければ良いものは生み出せない。豊かというのは、何も花鳥風月に囲まれることや文化的強者になることだけではない。善い悪いに捉われない、感慨の密度・頻度・深度、それが僕の思う豊かさであり、おそらく虚子の指す「生活」なのだと思う。

「客観写生」を掲げた虚子の俳句論をそのまま詩に当てはめることは乱暴だけれども、詩作の動機・発端に対して彼の言葉を投射することは何ら差し支えないと思う。そして動機の領域からどう展開させるかが、詩人の本懐なのだろう。

で、ヘアオイルだのユニセックスだの詩だの散々言ってきた今回の投稿。書いているのが髭面30代オッサンであるという事実は、紙面の奥深くに隠されている。ではまた。


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