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【エッセイ】990からの物差し

喧騒を離れて温泉宿に来ている。いちどは「都会の喧騒」とか言ってみたいものだが、残念ながら僕の住居があるところは都会ではない。とはいえ社会活動を少し離れるだけで、身体感覚がだいぶ変わってくる。呼吸、心拍、歩行、食事、、、動物として根源的な活動の割合がぐんと上がる。乱暴に言うと日々考えていることの大部分がどうでも良くなってくる。人間は基本的に社会的な思考に毒されすぎなのだと思う。

温泉宿から日本一高い山を見上げる。その雄大さに圧倒され、畏れかしこまった想いになる。さすが日本一……では日本一ということを僕が知らなかったとして、また実は日本一じゃなかったとして、この荘重な想いは減じてしまうだろうか。たぶんそうではないだろう。日本一というのはラベルに過ぎない。山の価値を説明するかもしれないが、価値を上下させることはない。

開山期間はもう過ぎてしまったが、あの高い山にも登る人がいる。体の丈夫でない僕からしたら本当に凄いことだ。その気概も強靭な足腰も心肺も羨ましく思える。しかし登る人は見上げる人よりも価値が高いか?と訊かれたら、それには否をつきつけよう。頑張る人を否定するつもりはないが、人間間の能力の差など取るに足らないものだと思う。それは人間社会という拡大鏡が作用して、大きく見えているだけなのだろう。

人間は本来ちっぽけな存在だから、大いなるものを想定してそこに寄る辺を求める。自分の外に求めるなら他力の信仰になり、山を見上げて拝むのだろう。自分の内に求めるのなら自力の信仰になり、山に入って修行する。そういった大いなるものとの繋がりの中で、人は自身の矮小さを痛感し、人と人とで身を寄せ合うようになるのだと思う。

若い頃、僕は人の価値をー10〜+10くらいで測って一喜一憂していたかもしれない。でも今は990〜1010くらいの物差しを持つようになった。情けないことに社会的な要因による価値の差異を完全に否定しきることができないのだが、大いなるものの加護として遍く+1000された。この物差しでは、±10の差異など誤差範囲なのである。物差しがあったところで、他人が簡単に正確に測れるようなものでもない。
自分の身体能力は平均以下かもしれない。それでもれっきとした人間として990点以上ではあるのだ、と。たぶん。

十全でなくても生きていることは尊い。

もういいじゃないか。ニキビも脂肪も気にせずに、楽しく生きていこうじゃないか。
こうして僕は生きることの罪と恥とを捨て去って、懸命にパフェに食らいつくのだ。

話は変わりますが、このコロナ禍において、山梨県の観光産業に従事する皆さまの多大なる努力に敬意を表します。本当に素晴らしいです。

#エッセイ  #富士山 #河口湖 #宗教

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