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往復書簡19 ◯△□

前回お手紙をもらってからほぼ1年が経ってしまいました。遅くなってごめんなさいと思いつつも、いつか絶対に返信するという気持ちは揺るがなかったので、どうかご容赦くださいm(_ _)m

Twitter改めXは、気を抜くと殺伐とした話題が次々流れてきます。差別や陰謀論や炎上袋叩きなど。ポストの物々しさに魅入られてひとたび開こうものなら、おすすめ欄は秒で絡め取られてしまいます。これらに抵抗するには、ひたすら好きなものにアクションをしていかなければなりません。それはそれで大変なことです。

そんな屍鬼の巣窟、底なし沼Xの中で、先日こんな瞑想法を見つけまして。

瞑想の割には手数が多くて面白いな(いじわる)と、やってみたのです。
そうしたら、驚くべきことに、第1行程の「自分の好きな色や形を頭の中でイメージする」からほとんど出来ませんでした!!笑
丸や三角や四角、単純な図形が全然映像として浮かび上がってこない。瞼の裏の赤や緑のさざなみがうにょうにょ動いているのみです。

これまでの人生において、脳で映像化できなくて困るなんてことはありませんでした。立体の見えてない部分を想像したり、好きな映画のワンシーンを思い浮かべたり、そんなことはある程度できてきたはず。。。
調べてみると、アファンタジア(Aphantasia)と呼ばれる心的イメージを視覚化できない人々が人口の数%はいるみたいです。が、自分は小説を読んでいれば確かに情景は浮かんでくるので、それともちょっと違う気がします。

この段階で「もしかして自分、言語にかなり依存してるのでは?」という疑念がわいてきました。つまり「三角形」の姿形を鮮明に思い浮かべられない代わりに、「点が3つあってそれぞれが線で結ばれている図形」という観念を思い浮かべていて、それを形と勘違いしてきたのではないか。都度、言葉に変換しながらやりくりしてきたのでは?と。
そんな気がしただけで、本当は全然違うかもしれません。

簡単な図形と、言語による観念と、そのキャンセル、などのワードから、禅画を連想しました。

仙厓という江戸後期の画僧による墨画です。墨で◯と△と□が描かれているだけ。所蔵している出光美術館の解説によると解釈は難解で、修行の階梯とも、大宇宙の表現とも捉えられているそうです。でもこのような解釈は禅僧や宗教学者や美術学者以外にはきっと不要なのでしょう。
これを解釈し始めようとするところに、むしろ頭の中で単純な図形を描けない病理があるような気がしています。やはり色即是空空即是色なのでしょうか。

言語には原始的側面と社会的側面があります。
後者は人と実態を共有するためのもので、カテゴライズとタグ付けの繰り返しで成り立っているものだと思います。そういった言語の力でばかり世の中を眺めているとなんとも窮屈で、いきいきとした活力みたいなものが失われていくようです。

ふだん興味深く拝見しているXユーザーに、芸術論者の中島智さんという方がおります。彼のポストの中に「生そのもの」と「属性や目的」といった生の捉え方があり、感じ入って保存していました。

この論旨には頷かざるを得ない。言語のふたつの側面にも繋がるような気がします。
そして、自分はなんと芸術から生そのものから遠ざかった感性で生きているのか!と悲しくもなりました。
単純な◯△□を思い浮かべられないというところから、生の所感にまで話が飛躍してしまいました。でも、きっと永田さんならこれを飛躍としないで何かコメントしてくださるかなと、期待を込めて話してみました。

自分だけの、たったひとりの、なんの掛け違えもない純粋な記憶なんてあるのか疑問です。

永田さん、2023年8月31日

言語の城としての記憶、うごめく生としての記憶。積み重なってく他者への感情や、世界への感動によって変容する記憶。記憶自体も、うごめく。永田さんの疑問はきっと正しい。
そして最近の永田さんの写真からは、そういった記憶の変容やうごめきを感じていたりします。すごくいい感じ、というか、すごい。

負けじと、というわけではなく、僕も生そのものを味わい、その瞬間を創作したいと思い、俳句や短詩に触れる時間を意図的に増やしています。
『くりかえし読みたい名俳句1000』には、やはり素晴らしい句がたくさん収蔵されておりまして、、、

窓に銀河妻ならぬ人おもひ寝る

上村占魚

胸に棲む人と酎む酒十三夜

山田弘子

たまたま恋愛の句になりましたが、たった十七字の静的な言葉、静的な映像から弾け出す、情の律動! 嫉妬しかない!!笑
この句が詠者の体験に紐づいているかどうかはわかりませんが、その記憶(擬似のだとしても)は絶対に掛け違えのない純粋なものなどではない。情動を変え景観も変えながら残り続ける句だ。僕はそう思います。

すでにお感じになってるかもしれませんが、多忙につき読むことからも書くことからも遠ざかっていました。そうなると、本当に読めない書けないになってしまうんですね!! こんなに読んだり書いたりしてきたはずなのに、塵の山はこんなにも簡単に崩れて吹き流されてしまうのか!?
嘆いていても仕方がないので、また時間を見つけて創作していきたいです。

それでは、また。

Sincerely

2024年8月17日
矢口れんと


#往復書簡 #日記 #エッセイ

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!