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小説『あれもこれもそれも』3-3

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
story 3. 時の木陰にて -3

私たちは一時的な沈黙に包まれた。それに合わせる必要なんてないのに、なぜか店全体もしんとなった。
「……で、佳美。電話かけてきたのはどんな奴だったの?」
(前話)


「素性はまったく分からない。名前も名乗らなくて、あなたの夫とお付き合いしているってだけ」
「それでそれで、何が目的で電話してきたの?」
「話がしたいから会いたいって」
「えーっ、何それ超怖い。あんたの旦那ちょうだい、とか言うつもりなのかしら」
「……うん、そうかも」
「で、どうするの? 行くの?」
「いや、とりあえず番号通知でかかってきていたから、また後日返事をするって伝えて切ったよ」
 そう私はあの晩、夫の不倫相手と電話越しに対面したのだった。
「そうかぁ」
 めずらしく神妙な表情を浮かべる小春。私のこの希薄な実感も、第三者である小春が感じているものとさして変わらない気がした。いつかの対面を予測していたとは言え、それはあまりに急な訪れだったのだ。

 あの夜「夫とお付き合い——」という言葉が鼓膜に届いた瞬間に、現実を認識しているファインダーの絞りが急速に縮む音が聞こえて、多くの感覚が閉ざされた。その一方で聴覚だけは異常に研ぎ澄まされ、会話の内容よりも、彼女の声色や息づかいばかりに意識が向かわされたのだった。しきりに息を呑んだり吐いたりしながら、辛うじてか細く震えた声を発していた。サスペンス映画の逼迫したシーンのような息づかいに、私は即座に現実感から遠ざけられた。

「会うか会わないかは別にして、まずは離婚じゃない? うん、先に離婚だよ。1に離婚、2に離婚よ。3も4もどうでもいい! ほんと私の可愛い佳美になんてことをするのかしら。許せない男」
 小春の言うことはだんだん滅茶苦茶になってきている。私たちは昔からこうだった。建設的なアドバイスなど得られないのは、いつも通りのことだ。そんなもの必要なくて、今日は自分を盲目的に肯定してくれる友人の存在を、確認したかっただけなのだろう。

「そうだよ、ついこの間、同窓会あったじゃん。ほら弁護士の久野くんも来てたでしょ。相談しなかったの?」
「久野くんとは席が遠かったから。それに……同窓会の次の日の夜だったのよ。その不倫相手から電話がかかってきたのは」
「そうかあ、ニアミスか……」
 そう言って小春は一旦うつむく……と思いきや
「じゃあさ、じゃあさ、新しい恋の予感とかはなかったの?」
 何の前触れもなく会話は反転した。唐突に色めいた小春の瞳が私をまっすぐ見つめた。この愛しい瞬間だけを切り取ることができたらどんなに良いかと思った。
「同窓会で新しい恋なんてベタ過ぎ。っていうか小春。まだ離婚かどうかも決めてないのに気が早すぎだよ」

 店を出ても小春は話を止めようとしなかった。私たちはサークルなどでよくある場面のように、駐車場でも立ち話を続けた。
 しかし私が娘の習い事の迎えに行く時間を告げると、小春のそれまでの勢いはどこへやら……すぐさま解散が言い渡され、彼女は離婚の慰謝料で購入した赤いレクサスに飛び乗って颯爽と去っていった。
 やはりどう考えても私たちは学生などではない。時間が戻った気になったとしても、それは一瞬の風が運んできた幻影に過ぎない。

 さすがにもう行かないと。車に乗り込みキーを回すと、エンジンがブオンといつもより一段と大きく鳴いた。手元から視線を前の方に戻すと、フロントガラス越しに丘陵を灰で固めたような雲がずっと奥まで広がっていた。朝に天気予報は確認していたが、台風は思っていたより速い速度でこの街に近づいているようだ。
 小春と過ごした時間を思い返す。あの電話がかかってきた日から今日まで、胸の内だけに留めていたわだかまりを、私はついさっき世界に対して吐き出した。そのことと眼前に広がる光景とが、無関係には思えなかった。


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#小説 #詩 #エッセイ #あれもこれもそれも #時の木陰にて

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