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13歳からのアート思考 後編

昨日の続きになります。改めてこの本を読んで正解のない今の時代だからこそ私たちが養うべき思考だと思いました。一読する価値はあると思いますのでとてもおすすめします。
メモの内容が理解しずらかったら申し訳ないです。

・カメラが登場したことによって、より一層アートにしかできないこと、リアルさっていったいなんだろう?ということをピカソは考えた。
リアリティーは君がどのように物を見るかの中にある。

・リアルさには見かけのリアルさともっと踏み込んだリアルさとがある。辛い出来事を経験したけどなにごともなかったかのように笑顔を見せている人がいたとしてその人のリアルさはどちらのだろう。見かけのリアルさは視点的な物が多い。踏み込んだリアルさは心で感じとるようなこと。

・多視点からとらえたものをピカソ自身を通して再構成してる。

・遠近法では到達できないような新しいリアルさを求めていた。

・この世に存在しないものをリアルに描いたららどうなるのか?それはリアルなのか?そういうアイデアが発明の誕生。

・なにが描かれてるかわからなかったのに、惹きつけられたのではなく、なにが描かれているかわからなかったからこそ、惹きつけられた。

・アートの見方
背景とのやりとり。背景とは作者の考えに加え、作者の人生、評論家による分析、美術史における意義など作品を背後から成り立たせている様々な要素。
背景に触れる時に大切なのは「やりとり」ができているか。

・作品はアーティストだけによって作られるものではない。見る人による解釈が作品を新しい世界に広げてくれる

・作品とのやりとりは作者とあなたがフィフティー、フィフティーで作品を作り上げる作業
作者の答えと鑑賞者の答え、その二つが掛け合わさることでアートという植物は無限大に形を変える

・あえて空白にしたり情報量を少なくさせることで見ている人自身にも想像させ作者と見ている人で作品を作り上げる

・アート鑑賞とは作者が伝えたかったことを正確に読み取ることではない。

・アートの常識とは?
アートは目で見て美しいものでなければならない。というのは果たして本当なのか?

・20世期のアートでは探究の根に目が向けられる。表現の花を生み出す過程で育まれる探究の根にこそアートの核心があると考えた。
しかし作品である表現の花にも重きを置いていた。自分たちの探究の過程は、あくまでも「視覚で愛でることができる表現」に落とし込まれるべきだという前提がそこにはあった。そこにデュシャンは目をつけた。
「泉」から視覚で愛でられる要素をことごとく排除する。もとが便器である以上美しいとは言いがたいし見るのも触るのもいや。
つまり泉とは表現の花を極限まで縮小し、反対に探究の根を極大化した作品。
アートを視覚の領域から思考の領域へと完全に移行させた。

・結果目ではなく「頭」で鑑賞するアートという自分なりの答えを生み出した。デュシャンは美学を失墜させようと考えていた。

・利休は視覚で愛でることができる要素をあえて排除した「触覚」で味わうアートを作り出していた。

・透明なガラスを見た時に窓そのものを見る人窓の外に映る景色に分かれる。アートでもそれと一緒。

・ポロックはナンバー1Aによってアートをなんらかのイメージを映し出すためのものという役割から解放した。
絵を描いたというより絵具やキャンバスという物質を使って絵をつくった。
ポロックの自分なりの答えはまさにアートにしかできないことはなにかという問いに対する究極の答え。

・MoMaはゲーム(パックマン)をアートとした。
つまりこれこそがアートだといえるような枠組みがなくなったいま、なにをアートという城に含めるかはもはや話し合うべきポイントではない。
ただし、アートという枠組みがなくなったということともはやアートがなくなってしまったということはイコールではない。

以上になります。今日でゴールデンウィークが終わり明日からまた仕事の毎日ですが、マスクして頑張って行きたいと思います。


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