【子育て】あの子はどこへ?
◆成長することはとてつもなくさびしいこと
子供が日々成長していく姿には感動する。
生まれたての赤ちゃん
産着にくるまれたすがすがしい新生児
首がすわりって、ハイハイして
つかまり立ち、二足歩行
おむつがとれて、徒競走で走って、
歌を歌って、文字を書いて、、、
今、うちの一人息子は15歳、高校1年生になった。
「うるさい」「どっかいなくなって」「一人暮らししたい」と言う。これも順調に成長している証だと思う。決してあたりまえのことじゃない。元気に成長しているって奇跡なのだ。とても感謝している。
それはそれとして、私が今強く感じているのは「幼くてあんなに可愛かった我が子は一体どこに行ったの?」そんな哀惜の念。じわじわきてて今ドーンときた。
蝶々をじーっと見てもサナギが見えてこないように(サナギをじっと見ても幼虫が見えてこないようにの方かな)、今の息子を見ても昔の坊やはいない。同じ子だということはわかる。性質や本質的なものは保持されいる。「あの子はこの子だ」とわかる。
でも、あの子(たち)は消えた。消え去った。どんなに哀しんでも、祈り狂っても二度と現われない。実感。とてつもなくさみしい。
「そんなこといつまでも嘆くなよ。15歳のその子だって刻々と消えていくよ」と言われそうだが、「成長」というものがこんなにさびしい一面を持つのだと身に染みてわかった今、少しこれを見つめてみようと思う。
◆子育ての「わな」に注意!
ミルクを飲んですやすや眠っていた赤ちゃん
ママ抱っこ!っていつもせがんでた坊や
日暮れまで公園で一緒にキャッチボールした少年
、、、挙げればきりがないが、もうどこを探してもいない。
なにがずるいって「同じ子」を一貫して育ててきたのに、同じ子の成長前の姿がいつの間にか淡雪のようにすーっと消えていくなんて「わな」がずるい。
こっちは知らなかったわけではないが、取り返しがつかない日々が去ったと"ある日""ふと"悟る。もっとちゃんと200パーセント心をこめて、じっくりゆっくり子供と向かい合っていればよかった。後悔。(でもどんなにしっかりやっても後悔はあるのだろう)
◆大きな輪の一環
成長は善か悪か。悪だって言いたいときもある。でも目の前の息子を見ると成長は嬉しいこと、必要なことだと思う。これからの人生を自分の足で歩き、自由に創造していくためにも。
もっと先のことを考えるとどうだろう。成長はやがて衰退へとつながっていく。その先は死へ、、、。じゃあやっぱり成長は悪? けれど死がなければ次の生の余地がない。子供⇒大人⇒老いる。誕生⇒成長⇒老化⇒死。このめぐりを繰り返すのが世のことわり。
この輪の中でだれもが変化しながら生きている。ちっちゃな坊やが消え去ったのと同じく、あの時の自分もいない。
幼児の変化は驚異的にめざましい。驚異的にめざましい時期の「子育て」は濃密な親子の関わりがある。とても特殊な年月だったと振り返って本当にわかる(絶対的にかわいいし)。
変化がすごくて濃密で特殊な時期だと、誰かが前もって命がけで私に教えてくれていたら!もっとちゃんとやっただろうのに!・・ということを子育てこれからの人たちに知らせたい!!
◆すごい伏線回収
私が中学生の頃、母も私に「大きくなったわね」とよく言っていた。修学旅行に出発する朝なんかは、お見送りしながら泣いていた。私は(いやだなーーやめてくれ!)と心底思った。
今は母の思いがよくわかる。一体何十年ごしなのか、すごい伏線回収だ。「あれはこういうことだったのか!」って全部わかる。子供の私は「その手にのりたくなかったな~」と悔しがるだろうけど。
息子が親になったときはどうだろう。たまには思いを語って伏線をまいておこうか。
◆「今がすべて」は真実
すこし未来の、青年になった息子を思い浮かべてみる。
15歳の今とは違っているだろう。私は「高校生だったあの子がいない!消え去っちゃった!」ってまた騒ぐ? もっとちゃんとやっていればって茫然として? そう思ったとき心臓がドクっと鳴った。時の流れが恐ろしい。早いよ早いよ。
やっぱり「今」ほど大事なものはない。過ぎ去ったものを追いかけることは絶対にできないのだから。
「今がすべて」は究極の真実だと忘れずに生きよう。
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