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「千のナイフ」とマオ思想

1912年2月12日、マンジュ人のダイチン(大清)帝界最後の皇帝、6歳のアイシンギョロ・プーイー(愛新覚羅溥儀、1906年2月7日~1967年10月17日)が退位し、ダイチン帝界が滅亡した。

1917年11月7日、ラッスィースカヤ帝界に代わり、47歳のウラジーミル・レーニン(1870年4月22日~1924年1月21日)らにより、世界初の社会主義政体のラッスィースカヤ評議会社会主義共和国が成立した。

1918年1月28日、ラッスィースカヤ評議会社会主義共和国が「労働者・農民赤軍」を創設した。

1919年3月2日~6日、マスクヴァで、「多民界共産党(カムニスティーチェスキ・インテルナツィオーナル)」(「コミンテルン(Komintern)」)創立大会が開かれた。

1920年10月、マスクヴァで、ラッスィースカヤ評議会社会主義共和国の人民委員会教育部長の46歳のフセヴォロトゥ・メイエルホリトゥ(1874年2月9日~1940年2月2日)が「ラッスィースカヤ評議会社会主義共和国第一劇場(Театр РСФСР 1-й)」を設立した。

1922年、マスクヴァで、アナトリー・ルナチヤルスキー(1875年11月23日~1933年12月26日)作、N・I・ピスカリエヴァ(Н.И.Пискарева)画の戯曲『解放されたドン・キホテ』Освобожденный Дон Кихот(Государственное издательство)が刊行された。

1922年12月30日、52歳のレーニンを最高指導者とし、マスクヴァを首都とする共和国連邦、評議会社会主義共和国同盟(評議会同盟)が成立した。

1923年1月31日、22歳の村山知義(むらやま・ともよし、1901年1月18日~1977年3月22日)が、ドイチェス帝界から東京の自宅に帰った。

1923年3月9日、52歳のレーニンが病気のため一切の政治活動を停止した。

1923年、「ラッスィースカヤ評議会社会主義共和国第一劇場」が「V・E・メイエルホリトゥ劇場(театр В.Э. Мейерхольда)」に改称した。

1923年9月1日、関東大震災で、死者・行方不明者は推定10万人を越えた。
東京市内の64%の家屋が火災により焼失した。
東京市内の65%の人口が罹災した。

1924年1月26日、ペトラグラードゥレーニンにちなむレニングラードゥに改称された。

1924年6月13日、26歳の土方与志(ひじかた・よし、1898年4月16日~1959年6月4日)と42歳の小山内薫(おさない・かおる、1881年7月26日~1928年12月25日)が、震災からの復興のため、東京京橋築地つきじに、日本初の新劇の常設劇場「築地小劇場」を開設し、新劇の同名劇団を結成した。

1925年1月20日、大日本帝国評議会同盟が国交を結んだ。

1926年1月23日、マスクヴァのV・E・メイエルホリトゥ劇場で、1924年に、チーナ(支那)スーチュアン(四川)省の港町、ワンシエン(万県)で作者が見聞した事件に基づく、連合王国とアメリカ連合国の白人資本家によるチーナ人労働者差別を描く、33歳のセルゲイ・トゥレチエコフ(1892年6月8日~1937年9月10日)作『ほえろチーナ!』Рычи, Китай!が、ヴァシリ・フョードロフ(1891年~1971年)、ブトリン・ニコラエヴィチ(1893年~1961年) 、51歳のメイホルホリトゥの演出で初演された。

1926年11月、「日本プロレタリア文芸連盟」が無政府主義者を排除して、評議会同盟(ソビエト連邦)を支持する「日本プロレタリア芸術連盟」に改組された。

1926年11月25日、「社會文藝叢書」第3編、ルナチヤルスキイ作、22歳の千田是也(せんだ・これや 、1904年7月15日~1994年12月21日)、辻恒彦共譯『解放されたドン・キホーテ』(金星堂、85銭)が刊行された。

1926年12月、東京小石川こいしかわ駕籠町かごまちの21歳の佐野碩(さの・せき、1905年1月14日~1966年9月29日)宅で、佐野碩、25歳の村山知義、22歳の千田是也らが「日本プロレタリア芸術連盟」傘下の新劇の劇団「前衛座」を結成した。

1926年12月6日~8日、築地小劇場で、「前衛座」が第1回公演、アナトリー・ルナチヤルスキー作、22歳の千田是也訳、21歳の佐野碩演出『解放されたドン・キホーテ』10場を上演した。
25歳の村山知義が舞台装置設計を担当し、26歳の柳瀬正夢(やなせ・まさむ、1900年1月12日~1945年5月25日)がポスターをデザインした。

以後、プロレタリア劇団による演劇が築地小劇場で上演された。

日本アジア研究』(埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要)第6号(2009年3月)掲載、小谷一郎(1950年~)「ふたたび一枚の写真から:王道源、そして「青年芸術家連盟」のことども」によると、1929年3月、東京の神田日華学会で、東京上野公園の東京美術学校西洋画科の卒業生のチーナ人、32歳のワン・タオユエン(王道源、1896年5月4日~1960年12月)、東京美術学校西洋画科在学中のチーナ人、24歳のシー・シンチー(許幸之、1904年4月5日~1991年12月11日)らが、支那人留学生の洋画運動団体「東京美術研究会」を「青年芸術連盟」と改称した。

会員は25名、うち中国共産党員は9名だった。
発会式の来賓は、46歳の秋田雨雀(あきた・うじゃく、1883年1月30日~1962年5月12日)、28歳の村山知義、36歳の藤森成吉(ふじもり・せいきち、1892年8月28日~1977年5月26日)だった。

1928年5月20日、露西亞文學研究會露西亞文學研究」第一輯『メイエルホリド研究』(原始社、1円)が刊行された。

36歳の米川正夫(よねかわ・まさお、1891年11月25日~1965年12月29日)「私のメイエルホリド觀
金田常三郎メイエルホリドが幼年・少年・靑年期
29歳の熊澤復六(くまざわ・またろく、1899年4月8日~1971年12月16日)「十月革命前のメイエルホリド
25歳の八住利雄(やすみ・としお、1903年4月6日~1991年5月22日)「十月革命後のメイルホリド
同人同人語

1929年4月、「世界戯曲全集」27、『露西亞篇5勞農露西亞劇集』(世界戯曲全集刊行會)が刊行された。
ルナチヤアルスキイ作、29歳の熊澤復六譯『解放されたドン・キホオテ』を収めた。

1929年8月31日~9月4日、東京本郷の松竹系列の本郷座で、劇団「築地小劇場」公演、トレチャコフ作、大隅俊雄(おおすみ・としお)訳、30歳の北村喜八(きたむら・きはち、1898年11月17日~1960年12月27日)修補、40歳の青山杉作(1889年7月22日~1956年12月26日)、北村喜八演出『吼えろ支那』9景、39歳の江馬修(えま・しゅう、1889年12月12日~1975年1月23日)作、28歳の村山知義改補、村山知義演出『阿片戰爭』4幕8場が公演された。

25歳のシー・シンチー(許幸之)は、舞台衣裳、舞台稽古の顧問として、日本人俳優の演技、メイキャップなどがチーナ人らしく見えるよう助言した。

1929年10月3日、早朝、チーナ人日本留学生の中に「中国共産党日本特別支部」があるとの名目で、113名が検挙された。
これにより「青年芸術家連盟」が活動を停止した。

1930年3月、「世界プロレタリア文藝選集」、ルナチヤルスキイ作、千田是也辻恒彦共譯『解放されたドン・キホーテ』(金星堂、30銭)が刊行された。

1930年6月14日~24日、東京下谷二長町したやにちょうまちの市村座で、新築地劇団公演、トレチャコフ作、大隈俊雄訳、隆松秋彦、32歳の土方与志、26歳の山川幸世(やまかわ・ゆきよ、1904年3月23日~1974年12月23日)演出『吼えろ支那』が公演された。

26歳の小林多喜二(こばやし・たきじ、1903年12月1日~1933年2月20日)がこの公演を観た。

1933年4月25日発行、小林多喜二著『日和見主義に關する鬪爭』「文藝時評」より引用する(197頁)

 私は明年六月末、丁度監獄に入る二三日前、「市村座」で、新築地の「吼えろ支那」を見た。北海道から出てきて、この種の劇を見た最初のものであり、その時私は手をたゝき、足踏みをして興奮した。

1933年11月16日、アメリカ連合国評議会同盟が国交を結んだ。 

1935年5月、シャンハイ(上海)で、31歳のシー・シンチー(許幸之)監督、中国共産党の37歳のティエン・ハン(田漢、1898年3月12日~1968年12月10日)、中国共産党の34歳のシャ・イエン(夏衍、1900年10月30日~1995年2月6日)脚本の中国語の映画劇『嵐の中の若者たち』風雲児女(89分)が公開された。

主題歌は、ティエン・ハン(田漢)作詩、23歳のニエ・アル (聶耳、1912年2月14日~1935年7月17日)作曲の「義勇軍進行曲」だった。

立ち上がれ! 奴隷になりたくない者たちよ!
我らの血肉で新たな長城を築こう!
中華民族に最大の危機がせまる、
全員が最後の雄叫びを上げる時が来た。
立ち上がれ!立ち上がれ!立ち上がれ!
我らは一丸となって、
敵の砲火に立ち向かおう!前進しよう!
敵の砲火に立ち向かおう!前進しよう!
前進!前進!進もう!

1999年3月12日~3月21日、国際交流フォーラムで、国際交流基金アジアセンター主催の14作品の中国映画劇特集上映、「中国映画撮影所シリーズ1」「1930年代上海映画特集」が催され、『嵐の中の若者たち』風雲児女の秋山珠子訳の日本語字幕スーパー版が公開された。

2019年2月21日、「シリーズ日本の中の世界史」、65歳の久保亨(くぼ・とおる、1953年3月30日~)著『日本で生まれた中国国歌「義勇軍行進曲」の時代』(岩波書店、本体2,400円)が刊行された。

1937年7月7日、ベイピン(北平)で、大日本帝国多民界共産党(コミンテル)が支援する中華民国国民革命軍の戦争が始まった。

1937年11月29日、マスクヴァにいた、多民界共産党(コミンテルン)の支部の中国共産党の理論的指導者の33歳のワン・ミン(王明、1904年4月9日~1974年3月27日)、39歳のカン・ション(康生、1898年11月4日~1975年12月16日)、32歳のチェン・ユン(陳雲、1905年6月13日~1995年4月10日)が飛行機でイェン・アン(延安)に着いた。

ワン・ミン(王明)と43歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)の権力闘争が始まった。
評議会同盟の最高指導者の58歳のヨシフ・スターリン(1878年12月18日~1953年3月5日)、多民界共産党(コミンテルン)書記長の56歳のゲオルギ・ディミトロフ(1882年6月18日~1949年7月2日)が支持していたのはマオ・ツオトン(毛沢東)だった。

1937年12月13日、大日本帝国軍中華民国の首都ナンキン(南京)を占拠した。

2005年8月3日発行、「PHP新書」、56歳の北村稔(きたむら・みのる、1948年 12月13日~)著『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP研究所、本体720円)、第3章「なぜ国民党ではなく共産党だったのか」より引用する(146頁)。

 日中戦争が中国共産党の権力掌握に与えた決定的影響を、毛沢東は一九六一年に訪中した日本社会党の国会議員らとの対談で、次のように語っている(外務省アジア局中国課監修『日中関係基本資料集1949-1969』、霞山会、一九七〇年、資料70〈「毛沢東主席の黒田寿男社会党議員等に対する談話」一九六一年一月二十四日〉。なお、カッコ内は筆者)。
「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山のなかにいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地をつくって、その後の解放戦争(日本降伏後の国共内戦)において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は《よいこと》をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」

1938年7月、マスクヴァで、多民界共産党(コミンテルン)書記長の56歳のゲオルギ・ディミトロフが、中国共産党の31歳のワン・チアシアン(王稼祥、1906年8月15日~1974年1月25日)に口頭で、44歳のマオ・ツオトン(毛沢東)を中国共産党の最高指導者とするよう指示し、さらに、中国共産党指導者の権威を高めるようにという59歳のスターリンの指示をも伝えた。

1938年9月14日、中国共産党解放区のイェンアン(延安)で開かれた中国共産党中央政治局会議で、32歳のワン・チアシアン(王稼祥)がディミトロフの指示を伝えた。

1938年10月、イェンアン(延安)で55人が参加して開かれた中国共産党第6期中央委員会第6回全体会議(9月29日~11月6日)で、44歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が書記処主席として中国共産党の最高指導者となり、彼の唱えたマークス主義の中国化が党の基本方針となった。

1938年11月20日、44歳のマオ・ツオトンが24歳のジャン・チン(江青、1914年3月5日~1991年5月14日)と結婚した。

1939年6月19日、評議会同盟の最高指導者の60歳のスターリンの命令で、65歳のメイエルホリトゥが逮捕された。

1940年2月2日、65歳のメイエルホリトゥが銃殺された。

1941年5月16日、47歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が指導する中国共産党解放区のイェンアン(延安)で、中国共産党の日刊紙『解放日報』が創刊された。

1942年、中国解放区抗日軍のシャンベイ(陝北)地方(シャンシー(陝西)省北部)の農民出身の兵士リ・ヨウユアン(李有源、1903年3月21日-1955年5月10日)が、民謡「ごま油(芝麻油)」の節に独自の歌詞を付けた中国共産主義革命歌「東は赤く(東方紅)」を作詩した。

東は赤く、太陽が昇る
中国に毛沢東が現れた
彼は人民の幸福を求める
彼は人民の偉大な救世主だ

東方紅太陽昇
中国出了個毛沢東
他為人民謀幸福
他是人民的大救星

1943年3月20日、イェンアン(延安)で、49歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が中国共産党中央政治局主席兼中央書記処主席に就任して中国共産党の独裁者となった。
38歳のワン・ミン(王明)は失脚した。

1943年5月15日、64歳のスターリン多民界共産党(コミンテルン)を解散した。

1943年7月4日、『解放日報』に、36歳のワン・チアシアン(王稼祥)が「中国共産党が中国民族を解放する道を与える(中国共産党与中国民族解放的道路)」を発表し、中国的マークス主義は49歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」だとした。

1945年4月23日~6月11日、イェンアン(延安)で、中国共産党第7期全国代表大会が開かれた。
マークス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を通して統一した思想であるマオ・ツオトン(毛沢東)思想を党の指導方針として党規約に盛り込んだ。

1945年8月14日、評議会同盟中華民国友好同盟条約を締結した。

1945年9月2日、大日本帝国アメリカ連合国の占領統治下に置かれた。

1945年9月9日、ナンキン(南京)で、大日本帝国中華民国に降伏した。

1945年11月、シェンヤン(瀋陽)で、35歳のコウムー(公木)(チャン・ソンルー(張松如)、1910年6月21日~1998年10月30日)が「東は赤く(東方紅)」の歌詞を改訂した。

1946年2月25日、「労働者・農民赤軍」が「評議会同盟軍」に改称された。

1946年6月26日、中華民国で、中国共産党人民解放軍中国国民党国民革命軍内戦が始まった。

1947年3月24日、中国共産党中国解放区抗日軍中国人民解放軍に改称した。

1949年1月31日、55歳のマオ・ツオトン(毛沢東)を最高指導者とする中国共産党人民解放軍がベイジン(北京)に入城した。

1949年8月1日、『人民日報』が中国共産党華北局の機関紙から中国共産党中央委員会の機関紙になった。

1949年9月27日、中国共産党、各民主党派、各団体、各界代表で構成される統一戦線組織の中国人民政治協商会議で「義勇軍進行曲」が正式な国歌が制定されるまでの暫定的な国歌と決められた。

1949年10月1日、中国国民党を破った中国共産党により、ベイジン(北京)で中華人民共和国が建国された。

1949年10月2日、評議会同盟中華人民共和国を承認した。

1949年9月、「義勇軍進行曲」が中華人民共和国の代国歌とされた。

1950年6月25日、朝鮮半島で、56歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の許可を得ることを条件に、評議会同盟の71歳のスターリンの許可を得たチョウサン民主主義人民共和国チョウサン人民軍テハン民国に侵攻し、戦争が勃発した。

1950年6月27日、テハン民国の75歳の大統領イ・スンマン(李承晩、1875年3月26日~1965年7月19日)はテハン民国の社会主義政党の南朝鮮労働党の支持者の処刑を命じ、数十万人以上の民間人が裁判なしで虐殺された。

1950年9月15日、イ・スンマンから戦争指揮の権限を与えられた、日本占領統治の最高責任者の70歳のダグラス・マカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日~1964年4月5日)の指揮するアメリカ連合国軍が、テハン民国を防衛するため、テハン民国のインチョン(仁川)に上陸し、朝鮮戦争に参戦した。

1950年10月19日、中国人民解放軍ヤールー川(鴨緑江)を越えて朝鮮内へ進軍した。

1950年10月25日、ヤールー川(鴨緑江)の南部で、中国人民解放軍テハン民国国軍と交戦し、中華人民共和国アメリカ連合国の交戦が始まった。

1952年4月28日、日本国が独立主権を回復した。
日本国とタイワン(台湾)の中華民国講和条約を結んだ。

1953年3月5日、スターリンが74歳で死去した。

1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定が結ばれた。

1955年11月28日、評議会同盟最高軍事部会がメイエルホリトゥの名誉回復を発表した。

1956年1月5日、モナコで、56歳のアンリ・ミショ(Henri Michaux、1899年5月24日~1984年10月19日)の詩集『みじめな奇跡』Misérable Miracle (La Mescaline)(Editions du Rocher)が刊行された。

突然ナイフが、突然千のナイフが、突然千の鎌が、光を放ち、閃光を放ち、いくつかの森を丸ごと伐採できるほどの巨大さで、空間を上から下まで切り裂くような、巨大な一撃を、奇跡的な速さの一撃を浴びせかける。

tout à coup un couteau, tout à coup mille couteaux, tout à coup mille faux éclatantes de lumière, serties d'éclairs, immenses à couper des forêts entières, se jettent à trancher l'espace du haut en bas, à coups gigantesques, à coups miraculeusement rapides

1956年2月25日、マスクヴァで開かれた第20回評議会同盟共産党大会で、評議会同盟共産党第一書記の61歳のニキータ・フルシショフ(1894年4月17日~1971年9月11日)の秘密報告「個人崇拝とその結果について(О культе личности и его последствиях)がおこなわれ、スターリンに対する個人崇拝が批判された。

1956年9月15日~27日、ベイジン(北京)で、中国共産党第8期全国代表大会が開かれ、57歳のリウ・シャオチー(劉少奇、1898年11月24日~1969年11月12日)が「個人崇拝」を批判し、党規約から「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」の語が削除された。

1957年4月22日、東京有楽町駅前に、村野藤吾(むらの・とうご、1891年5月15日~1984年11月26日)設計の地下2階・地上9階建ての読売会館が竣工した。

1957年5月20日、有楽町の有楽町駅側に建てられた、地下2階・地上9階建ての読売会館の開館式がおこなわれた。

6階までは商業区画で、「そごう」によって賃借され、首都圏進出の第一号店・そごう東京店が出店された。
読売会館7階から9階に読売ホール(客席1,100席)が開館し、「芸能文化祭」が催された。 

1957年5月25日、そごう3号店として、読売会館の地下2階~地上6階までの有楽町そごうが開店した。
開店初日、雨の中を約30万人の客が押し寄せた。

1957年11月13日、マスクヴァを訪れていた63歳のマオ・ツオトン(毛沢東)はマスクヴァ大学の中国人留学生を前に、社会主義陣営の中心政体の評議会同盟および中華人民共和国内部の市場開放政策支持者、平和共存政策支持者を批判し、「東風が西風を圧倒します(東風圧倒西風)」と述べた。

1958年5月5日、64歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の主導で中国共産党が採択した、15年で経済的に連合王国に追いつくことを目指す「大躍進」政策は失敗し、人類史上空前の数千万人単位の餓死者を出した。

1960年11月5日、中華人民共和国初の短距離弾道ミサイルトンフォン(東風)1号の発射実験に成功した。

1964年5月14日~17日、パリで開かれた、第17回フランセ共産党大会(XVIIe congrès du Parti communiste françaisで、新書記長に選ばれた59歳のヴァルデック・ロシェ(Waldeck Rochet、1905年4月5日~1983年2月15日)は、評議会同盟共産党を支持し、中国共産党を激しく非難した。

1964年9月25日、日本共産党評議会同盟支持派の59歳の神山茂夫(1905年2月1日~1974年7月8日)と62歳の中野重治(1902年1月25日~1979年8月24日)が除名され、日本共産党の中国共産党支持が決定的になった。

1964年10月2日、建国記念日15周年を記念して、ベイジンの人民大会堂で、中国共産党の歴史を8つの場面に分け、歌、器楽曲、踊りを組み合わせ、3500人以上が出演する音楽劇『東は赤く(東方紅)』が初演された。

70歳のマオ・ツオトン(毛沢東)、65歳のリウ・シャオチー(劉少奇)、77歳のチュー・ドゥー(朱徳、1886年12月1日~1976年7月6日)、66歳のジョウ・エンライ(周恩来、1898年3月5日~1976年1月8日)、56歳のリン・ビャオ(林彪、1907年12月5日~1971年9月13日)、63歳のチェン・イー(陳毅、1901年8月26日~1972年1月6日)らの中国共産党指導者が観劇した。

1964年10月16日、中華人民共和国が、アジアで初の原子爆弾の核爆発実験に成功し、世界で5番目の核兵器保有国となった。

1965年10月2日、中華人民共和国で、49歳のワン・ピン(王萍、1916年9月2日~1990年12月28日)、51歳のリ・エンチエ(李恩傑、1914年3月~1974年9月16日)監督の「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」の宣伝の総天然色映画劇『東は赤く(東方紅)』(117分)が公開された。

1966年4月14日、全国人民代表大会全人代常務委員会第30回会議で、73歳のグオ・モールオ(郭沫若、1892年11月16日~1978年6月12日)が保身のため自己批判した。

1966年4月28日、72歳のマオ・ツオトン(毛沢東)の指示で、グオ・モールオ(郭沫若)の自己批判が本人の知らないうちに知識人向けの全国総合日刊紙『光明日報』に掲載された。

1966年5月2日、『朝日新聞』に、53歳の福田恆存(ふくだ・つねあり、1912年8月25日~1994年11月20日)の「郭沫若の心中を思ふ:真実の言なのか 絶望の声なのか」が掲載された。

1966年5月5日、グオ・モールオ(郭沫若)の自己批判が『人民日報』に載り、世界中に広まった。

1966年5月16日、中華人民共和国のベイジン(北京)で、72歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が最高権力独占のため、敵対勢力の一掃を図り、「無産階級文化大革命」を都市部の若者に広め、知識階級の有力者たちを無差別に攻撃させた。
これにより一千万人を越えるともいわれる大量の死者が出た。

1966年5月29日、ベイジン(北京)のチンホワ(清華)大学付属の個人成績競争重視の知識人養成少数秀才校だった6年制の中学の17歳のチャン・チェンチー(張承志、1948年9月10日~)の発案による「紅衛兵(ホンウェイピン)」と呼ばれる数十人の学生組織が誕生し、6月1日に「紅衛兵」の名称が正式に採用された。

無産階級文化大革命」の推進中は、叛徒ティエン・ハン(田漢)の「義勇軍進行曲」の歌詞が禁じられた。

無産階級文化大革命」の推進中は総天然色映画劇『東は赤く(東方紅)』の公開が禁じられた。

1966年7月1日、中華人民共和国の「ベイジン(北京)ラジオ放送(北京広播電台)」の毎日の放送開始時の音楽が「東は赤く(東方紅)」になった。

1966年8月15日、読売ホールで、共同映画の配給で、中国語の総天然色映画劇『東方紅(トンファンホン)』の日本語ナレーション、日本語字幕スーパー版が公開された。
観客数は驚くほど少なかった。

1966年8月18日、ベイジン(北京)のティエンアン(天安)門広場で「文化大革命祝賀大会」と銘打った紅衛兵の大集会が開催され、「東は赤く(東方紅)」で幕を開けた。
約百万の大群衆を前に壇上に72歳のマオ・ツオトン(毛沢東)が登場し、『マオ(毛)主席語録』を捧げ持つ紅衛兵を激励した。

1966年8月27日の『朝日新聞』の夕刊の「「戦争と平和」に軍配洋画界の〝中ソ対立〟成績ふるわぬ「東方紅」」より引用する。

また、この映画は、日本側が手を加えることはできないという契約になっており、日本語のナレーションも中国で作られた。画面にスーパーではいる毛沢東の詩などは、むずかしい漢字が多くて読むことができず、やむなくスーパー部分は日本で直したという。

1966年12月10日、「ワールドブックス(Kawade world books)」、和田武司(1933年~)、市川宏(1937年~2014年6月12日)訳『毛沢東語録付・毛沢東伝 竹内実』(河出書房新社、緊急特価250円、1967年2月以後は280円)が刊行された。

帯表紙には「七億の民衆を導く思想」、帯裏表紙には「紅衛兵問題で一躍世界的になった問題の書。現代中国を支え導く根本原理たる本書を読まないで、中国を理解することはできない」とある。

1967年2月28日、42歳の三島由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)、67歳の川端康成(1899年6月14日~1972年4月16日)、42歳の安部公房(あべ・こうぼう、1924年3月7日~1993年1月22日)、67歳の石川淳(いしかわ・じゅん、1899年3月7日~1987年12月29日)の作家四名がマオ・ツオトン(毛沢東)の個人崇拝に基づく中華人民共和国無産階級文化大革命の暴力肯定に抗議する「文化大革命に関する声明」を発表した。

1967年8月3日~4日、ベイジン(北京)空港で、紅衛兵や日本人留学生らで構成された自称「日本人紅衛兵」らが、中華人民共和国より帰国しようとした日本共産党の機関紙『赤旗』ベイジン(北京)特派員・紺野純一日本共産党中央委員の64歳の砂間一良(すなま・いちろう、1903年2月8日~1992年12月12日)を監禁し、集団で暴行を加えた。
これにより日本共産党中国共産党の対立が決定的になった。

1968年2月1日、「現代の芸術双書」26、33歳の小島俊明(1934年4月27日~)訳編『アンリ・ミショオ詩集』(思潮社、600円)が刊行された。

1968年9月、パリで、イェフディ人の23歳のベニ・レヴィ(Benny Lévy、1945年8月28日~2003年10月15日)がピエール・ヴィクトール(Pierre Victor)の偽名を用い、マオ主義者の極左団体「無産民左派(Gauche prolétarienne)」を結成した。

1968年10月13日~31日、ベイジン(北京)で、中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議が開かれた。
69歳のリウ・シャオチー(劉少奇)が党を永久に除名された。

1969年4月1日~24日、ベイジン(北京)で、中国共産党第9期全国代表大会が開かれた。
党規約に「マオ・ツオトン(毛沢東)思想」の語が復活した。

1969年5月20日、アンリ・ミショー著、37歳の小海永二(こかい・えいじ、1931年11月28日~2015年7月21日)訳『みじめな奇蹟』(国文社、1,200円)が刊行された。
装幀は蛭間重夫だ。

突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌めこみ光線を閃めかせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈りとれるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛びこんでくる。

本書は Henri Michaux 『Misérable Miracle』(Edition du Rocher,Monaco, 1956)の全訳であり、ミショーのメスカリンの記録の最初の日本語訳である。

1969年12月15日、67歳の中野重治、64歳の神山茂夫編著『日本共産党批判』(三一書房、900円)が刊行された。

1970年9月24日、パリのスポーツ殿堂(Palais des Sports)で演奏中の連合王国のロック楽隊「風来坊組(The Rolling Stones)」の27歳のミック・ジャガー(Mick  Jagger、1943年7月26日~)が、「無産民左派(Gauche prolétarienne)」の28歳のセルジュ・ジュリ(Serge July、1942年12月27日~)を舞台に上げ、観衆に向けて演説させた。

1972年9月29日、日本国中華人民共和国国交を正常化した。
これにより、日本国中華民国との間の講和条約は無効になった。

1973年2月3日、パリで、67歳のジャン・ポール・サルトゥル(Jean-Paul Sartre、1905年6月21日~1980年4月15日)が、27歳のベニ・レヴィ、30歳のセルジュ・ジュリらと日刊紙『解放(Libération)』を創刊した。

1974年6月20日、『解放(Libération)』の第一面から68歳のサルトゥルの名前が消え、代わりに同紙の31歳の新編集長セルジュ・ジュリの名前が掲載された。

1976年9月9日、マオ・ツオトン(毛沢東)が82歳で死去した。

1976年10月6日、10年続いた中華人民共和国無産階級文化大革命が終わった。

1978年2月19日、東京白金しろがねの30歳の細野晴臣(ほその・はるおみ、1947年7月9日~)宅で、細野晴臣、25歳の高橋ユキヒロ(1952年6月6日~2023年1月11日)、26歳の坂本龍一(1952年1月17日~2023年3月28日)が、新しい音楽隊のイエロー・マジック・オーケストラを結成した。

1978年3月5日、第5回全国人民代表大会の第1回会議で「中華人民共和国憲法」が改正され、「義勇軍行進曲」の新しい歌詞が承認された。

前進しよう!各民族の英雄の人民よ!
偉大なる共産党は、我らを率いて長征を継続する。
全民衆が心を一つにして共産主義の明日に向かって進もう、
祖国を築き、祖国を守り、勇敢に戦おう。
前進!前進!前進しよう!
我らはいつまでも、
マオ・ツオトン(毛沢東)の旗を高く掲げて、進もう!
マオ・ツオトン(毛沢東)の旗を高く掲げて、進め!
前進!前進!進もう!

1978年10月25日、日本コロムビアから27歳の坂本龍一のアルバム『千のナイフ』のLP盤(YX-7586-ND、2,500円)が発売された。

録音は1978年4月10日から7月27日まで日本コロムビアの1、2、4スタジオでおこなわれた。

ゲストは、24歳の渡辺香津美(1953年10月14日~)、31歳の細野晴臣、27歳の浜口茂外也(はまぐち・もとや、1951年7月16日~)、27歳のペッカー(1950年8月13日~)、25歳の山下達郎(1953年2月4日~)、39歳の高橋悠治(1938年9月21日~)だ。

コンピュータ・オペレーターは26歳の松武秀樹(1951年8月12日~)が担当した。

ライナーノーツは46歳の林光(はやし・ひかる、1931年10月22日~2012年1月5日)、細野晴臣坂本龍一だ。

2024年2月6日発売の月刊文芸誌『群像』(講談社)3月号(特別定価税込み1,500円)に掲載された、劉争(りゅう・じゅん、1978年~)+片岡大右(かたおか・だいすけ、1974年~)「坂本龍一と中国の時間成都での回顧展を機に」より引用する(174頁)。

YMO結成後、グループのファースト・アルバム(一九七八年十一月)の直前に発売されたソロ・デビューアルバム『千のナイフ』(同年十月)では、始まりと終わりにおいて毛沢東主義への参照がなされている。よく知られているように、第一曲「THOUSAND KNIVES」のイントロに置かれた聴き取り不能の音声は、毛沢東の一九六五年の詩「水調歌頭 重上井岡山」の朗読をヴォコーダーに通したものだ。そして最終曲「THE END OF ASIA」のコーダでは、文革期に国歌のように広く歌われた革命歌「東方紅」が用いられている。

1979年1月1日、アメリカ連合国中華人民共和国が国交を結んだ。

1982年12月4日、第5期全国人民代表大会第5回会議で「中華人民共和国憲法」が改正され、「義勇軍行進曲」の1978年3月に承認された歌詞を取り消し、ティエン・ハン(田漢)の歌詞を復元した。

1991年9月6日、レニングラードゥサンクトゥ・ペチェルブルクの名称に戻された。

1993年1月1日、中華人民共和国の「ベイジン(北京)ラジオ放送」が「中国国際放送」に改称した。
毎日の放送開始時の音楽が中華人民共和国の国歌「義勇軍進行曲」に代わった。

2004年3月14日、第10期全国人民代表大会第2回会議で「中華人民共和国憲法」が改正され、「義勇軍進行曲」が公式の国歌となった。

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