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正論は正論であるという正論

自分は正論をよく言う。正論は良くないと言われ、相手の感情に配慮しろと言われ、一時期配慮したこともある。だが結局は正論を貫くことにした。

正論ははっきり言って速い。

配慮は確かに優しく、笑顔あふれる職場になるだろうが、遅い。そして、相手はずっと理解しない。現状を肯定する。使えない。

言いにくいことをストレートに言い、ザクッと相手を刺す。相手はそれを敵対と考えるかもしれない。だが実際は敵対していない。

むしろ自分は、敵対された場合は喜びを感じる。相手の意見を尊重し、それを取り込む。大人しく認める。それぐらい強い意志でなければ認めない。


正論を言われて「言い方が・・・」だの「もっと気持ちに・・・」だの言う人は、議論の内容うんぬんよりも自分の気持ちを大事にしている。そういう人はコストが高いし、結局その論に反論できていない。

それが正論ではないというのなら、反論しなければならない。


自分は正論を突きつけたあと、相手が逃げようとしてもそれを許さない。逃げようとしたときにもわかりやすい逃げ道を設けるが、その逃げ道を罠として用意しているので、そこに逃げ込んだらさらに逃げ道を塞ぐことが多い。相手がパニックになり、最終的に相手が無視という強硬手段をとってきたとしても、物理的に無視不可能な状態にして、相手により強い正論をつきつける。

相手の尊厳など気にかけない。徹底的な破壊も辞さない。それで嫌われようがかまわない。辞めることも許さない。怠けることも許さない。逃げることも許さない。病むことすら許さない。求めるのは「何をするか」と「何をしたか」と「結果」だ。それ以外は不要。

そんな相手の感情よりも、議論が前に進むことが重要であり、その人がボトルネックになることで停滞することは許さない。

それでも敵対され妨害される場合は相手から仕事を権限から根こそぎ奪い相手を追放する。存在を無価値化する。敵対だけならいいが妨害は許さない。なぜ妨害するのか、その根拠を述べてもらう。ずっと黙るという抵抗は許さない。周りからも固めていく。何1つとして相手が正しくないことの証拠を積み上げる。

もしそもそもほとんど対等ならそうした突きつけもせず最初から協力している。


自分はよく怖いと言われるが、相手の怠惰を看破することがうまい。だから怠けていない人にはそもそも正論とやらをぶつけない。実力が不足しているだけなら問題はない。精一杯やっているかどうかは見ればわかる。

正論に次ぐ正論を言っているときは既に相手に絶望している。どこまでもどこまでも逃げているので、精神を粉砕しているだけだ。チヤホヤしたところでどうしようもない。

それだけ精神を粉砕しても、相手が結果を出しさえすれば「Good Job.」と一声かける。もともと相手が嫌いではないからだ。



相手をとことん信用し、相手が泣こうが喚こうが地団駄を踏もうが絶望しようが悪口を言ってこようが陰口を叩いていようが、それでも相手がその正論を理解できればよい。

それは相手が乗り越えるべき壁だ。

「言い方が酷いです。もっと優しくしてください」と言われようが大いに結構。

そこを乗り越えればもはや言い方など些末な問題であり、お互いにできていないところを指摘しあいつつも、非常に硬い協力が生まれるだろう。


敵対されても相手を全員撃滅できるのであれば、ぜひ正論を言うべきだ。

仲良しこよしのグループの中で全員に気を配っていて根回しをしていては日が暮れる。必要ならば、正論の連打で人を壊滅させることも選択肢の1つである。

いつでもどこでも微笑んでおままごと。それが生産性を犠牲にしてきた。

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