私の鏡 -中学生時代 Part1-

最近考えること、ネタが多すぎて、そっちのほうに文章を書きがちだったが、久しぶりに自分の鏡と向き合ってみようと思う。

自分の学生時代はバレーを抜きにしては考えられない。その長いバレー人生の中で一番バレーが楽しかったのは中学のころだ。バレーもそうだが、この時にバレーを通して出会った仲間の存在は、その時はもちろん、今もこれからも自分にとってはほかとは少し違う、とても大事な仲間である。いくつになっても会っていたいし、自分たちの子供たちもつれてママ会をしたいと心から思うくらい、人生の中で切り離せない友情がそこにはある。

入学してからすぐバレーボール部に入部したのだがそのころは二年生、三年生共に部員一人ずつなのに対して、新入部員は八人。先輩は大変な思いをしたに違いない。

私たちの学年は、比較的ポテンシャルが高い人たちが多かったため、周りの学校からもこの学年は期待できると、巷では話題になっていた。

しかしその期待はしっかり裏切られた。二年生が終わるころ私たちは思うような結果を一つも残せていなかった。そして三年生になる直前、私はキャプテンに任命された。コーチと、小学校のころからのライバルチームに今年こそは本気で勝ちにいくぞという約束を交わして。

そして新学期、四月になってからわかったこと。私をキャプテンに任命したコーチは入学式のその場に姿を現さなかった。後任として新コーチになったのはなんとそのライバルチームの監督であった。本当に衝撃だった。そのライバルチームは小学校のころからライバルチームとして戦っていて、小学校のころは私たちのチームが優勢だったものの、中学の最初の二年間は私たちが負け越していた。そして自分たちの最後の年、絶対に絶対にライバルチームに勝ってやると意気込んでた時に、この衝撃的な異動のせいですべての歯車がくるった。

新監督は勝つためには手段を選ばない人であった。ライバルチームの監督であったときは、本当に嫌な思いをした。向こう側のベンチから間接的にこちら側のメンタルをえぐるようなことを言ってきて、相手チームを貶めるような人であった。そのため私たちはとても嫌っていた。それともう一つ悪名高い理由が、超絶過酷な練習内容だ。四時間の練習の中で、休憩以外の時は一切足を止めることなく、ひたすら走らなければならなかった。またプレーがうまくいかなかった子には、試合後であろうとなんだろうと関係なく、ワンマンと呼ばれる一対一の「しごき」が用意されていた。見てるこちら側も地獄であった。

そんな鬼監督を、しかもライバルチームを率いていた因縁深い監督を受け入れることはとても大変であった。その悲劇に追い打ちをかけるように、そのライバルチームの後任として、私たちの小学生時代の恩師が選ばれてしまったのであった。

この悲劇の繰り返しに当惑せずにはいられない状況であったが、キャプテンの私は、そんなことにかまってられず、この状況に少しでも早くチームを適応させなければならなかった。

キャプテンとしてできることは、監督の方針にまず従うことだった。悪名高い監督ではあったものの、腕は確かだった。とても教え方は上手だし、監督が教えたチームはますます変わっていく傾向にあった。そのため郷に入っては郷に従えの精神で、従ってみることにした。そのライバルチームに勝つということだけを夢見て。

初日から今までのメニューがほとんど変わっていった。言うまでもなく、練習の過酷さは加速していったが、自分たちでもわかるくらい上達を感じられた。思った以上に自分たちは新しい監督の方針や練習方法にチームがうまく適応できたので、私が懸念していたことはすぐに解決できた。

この適応という面で一つ困難だったのが、監督のキャプテンへの求めるものに応えることであった。監督はキャプテンに対する要求がものすごく高かった。キャプテンが一番声を出さなければならないし、キャプテンが一番先に行動しなければならないし、練習でも何に関してもキャプテンが一番最初にお手本として練習を引っ張り、作っていかなければならなかった。チームの雰囲気を作り出すのもキャプテンという考えだったので、すべての責任が私に置かれた。

よく言われた言葉は、「お前ほんまにキャプテンか?」である。それを言われたたびにものすごく腹が立ったが、チームを思うとそこでキレることもできず、耐え忍んだ。「なんとしてでもキャプテンなったるねん」精神をもって、私はもがき続けた。

今考えると、このショック療法は私にあっていたのかもしれない。私は責任感がとても強いほうだ。それと同時に達成感を強く求める傾向がある。(チームの状態を左右するのは自分であると考える。また自分の中での達成感が強いから、その対象がチームということになると、自分がキャプテンとしてチームを作り、チームのタスクを達成したいという強い気持ちが芽生える)

「チームに対する責任感」に関して言うと、小学校のころ、バレー部キャプテンをするにあたって自分がキャプテンとしてチームメンバーに喜びを与える(絶対みんなに勝利をささげるんだ)という強い思いから、自分にもメンバーにもとても厳しく接してしまって、監督にも注意されたくらいだ。余談になるが、その出来事は自分の中ではすごく大きい。人に対してアプローチを変えていくことのできる人が本当のリーダーなんだということに気が付けたのである。厳しさが利く人もいれば、そうでない人もいるから、その人のパフォーマンスを最大に引き出すためには、人に合わせた接し方が必要になってくるということだ。それから中学でキャプテンを任されたころは、この学びを生かした。責任感と正しく付き合っていくように心がけた。アプローチを変えて、チーム全員がモチベーションを失わないようにしたのと同時に、チームの目標を達成するという強い意志は持ち続けた。

「達成感」に関して言うと、私は自分の前に立ちはだかる壁を乗り越えることが好きだ。その過程がつらいものであっても、その後の達成感を考えると、耐えられることができる。達成感を常に追い求めていたいと思うのである。達成するということは、自分ができなかったことができるようになることであって、自分の成長を感じられる。自分の人生の目標として「死ぬまで一生成長」、「昨日とは違う自分でいる」というものがある。このように成長欲が強いため、何かを達成した時は成長に近づいている実感が得られ、それが幸せに直結するのである。先ほどのエピソードと被るが、自分がキャプテンとして、なんとしてでもこのチームに優勝をささげるんだ!という気持ちがとても強かった。今考えるとそれは、何かを達成することが自分にとっての一番の幸せであったからであろう。

話が大きくそれたが、話を戻すと、監督のショック療法は自分の責任感を刺激し、同時に達成欲を想起させた。ショック療法を受けるたび、自分の中の責任感がどんどん強くなり、チームをハッピーにするために、キャプテンとして一人一人にどうやってかかわっていくかということを常に考えるきっかけをくれた。つまりそれは、自分がキャプテンとして、チームの目標を達成して勝利を必ず勝ち取るんだ、勝利をささげるんだということを想起してくれた。

「自分がキャプテンになって、絶対このチーム最強にしたるねん!」というこのゴールをいつも思い出さしてくれたのだ。

ここまでが自分のメンタルの部分の話で、これからは、チームメンバーとの関わりという部分について書いていきたいと思う。

リーダーというのは自分だけが前に出て秀でているだけではだめだ。そこにチームメンバーとの信頼関係というものが存在しているかいないかで、そのたけている部分が使いようのないものになる可能性まで出てくる。

私はキャプテンをしていく中で、もちろん先頭に立ってみんなを引っ張っていくことをした自信はあるが、それと同時にメンバーとのコミュニケーションという点もとても大事にしていた。それは個々が力をあげることによってチーム力をあげるということよりは、お互いを理解しあい、足りないことを補い合い助け合うというソフトな面での関わりを増やすことが、チーム全体の満足度、一体感を上げることができると考えたからだ。コミュニケーションは人を理解するための大事なツールである。

私は、コート内のコミュニケーションを促進するために、練習の中でアタッカーはトスに対するコメントを必ずつけるようにルールを作った。練習からそれを意識するようになってから試合中もコミュニケーションが増えていった。でてきた課題をその場その場で解決していくことはとても効率が良く、みんなが心地よくプレーしていくようになった。また、その日の調子が悪い子がいたらそれをすぐにチーム内で共有し、今日はこういう対策をとっていこうという話し合いも欠かさなかった。チームメンバーがそれぞれ理解しあうことのできるようコミュニケーションの質を高めていった。

もう一つ私が心がけたことは一つ一つのプレーに対して「ありがとう」と「よくやったね」を付けること。バレーは自分側にボールが来てから相手側にボールを返すまで三人までボールに触れることができる。言い換えると最低3人が関わっているのだ。最低3人であるのは、ボールを触ってない人も十分に関与しているからである。例えば一人目が失敗したらそこでプレーは終わる。逆に一人がスーパープレーをしたらそれがチームを救うのである。一人一人が次の人を思ってプレーすることが大事なのだ。そのため、私はボールをつないでくれてありがとう、良くつないでくれたね!という感謝の気持ちを表すことで、自分自身とメンバーにチームメンバーへの感謝の気持ちを想起させた。それと同時に、ポジティブなインテラクションを増やすことで、チームメンバーにインセンティブを与えた。

直接的な一人ひとりに対する声掛けに加えて、キャプテンとしてチーム全体への呼びかけも怠らなかった。チームが劣勢になった時は、ここが踏ん張りどころであることを喚起してメンバーに緊張感を持たせた。チームが勝ち越しているときも緊張を緩ませないよう常に心掛けた。コート内では声が途切れないようにした。この結果、チームメンバーも私の姿を見て、チーム内への声掛け、メンバー同士の声掛けがふえていった。大事な場面では自分を信じてボールを持ってきてほしいと呼びかけ、チームメンバーの信頼を集めることを欠かさなかった。

私は、みんなの見本になるようなキャプテン、みんなをゴールに向かって確実に引っ張っていくキャプテン、同時にメンバーに寄り添うことを忘れず、常にメンバーの立場になって考えるキャプテン、信頼のおけるキャプテンとして修行の日々を積んだ。

時は過ぎ、六月、新監督就任後初戦となる、ライバルチームとの対戦を迎えた。

私たちもびっくり、なんとこの三年間で初めて勝利を収めたのである。その後一年のうち、三回ほど対戦したが、だれが予想しただろうか?私たちは全勝したのである。

今まで一切勝てなかったチームに勝てた要因はなんだろうか?もちろん技術が格段に上がっていったこともあるが、ライバルチームと比べるとまだ劣っていた。観客誰もが口をそろえていったこと、それは、技術はライバルチームのほうが上だけど、チームワークは確実に私たちの方が勝っているということであった。プロの世界ではチームワークだけで勝つことは難しいかもしれないが、中学生バレーではそれはむしろ技術よりも大事な要素であるような気がする。チームワークが技術を超えるパフォーマンスを生み出すのだ。

私は勝ったことそれ自体も嬉しかったが、それ以上にチームワークを褒められたのがとても嬉しかった。自分がキャプテンとして作ったチームのチームワークが最強であると認められたからである。それはまさに、自分たちのコミュニケーションを増やすことに対する努力の賜物である気がする。

自分がキャプテン意識を強く植え付けられることによって、責任感が生まれ、その責任感が自分の中に備えられてた達成感と融合していき、キャプテンとしてチームの目標を達成すべく、チームワークに焦点を置いた。そしてその基礎となるコミュニケーションを促進するというタスクを徹底し、チームワークを最大化させ、結果的にチームの勝利を勝ち取ったのである。

今考えると鬼監督ではあったものの、私の資質を見極めて、そのような指導をしてくれたかもしれない。

この経験からわかったこと、それは、

・自分は責任を与えられた際、自分の内側にある達成欲とそれをうまく調和させることによって、チームの目標を達成するための施策をとることができる。

・一人一人のことを考えて、寄り添いつつ、チームの道しるべとして、メンバーに方向を見失うことの無いように、先頭に立ってチームを率いてくことが好きである

・自分はやはり達成感を得たときに一番幸せを感じるということ。

・目標を達成するまでの過程は、自分に厳しい状況の中でも目標に向かってもがくことができる。

振り返ってみるとこの経験は自分の人格形成にとても大きな影響を与えた。

久しぶりにじぶんの鏡を見てみると、とても新鮮な気持ちになったのと、自分に一貫性を見ることができてきた。

これからも鏡と向き合う時間を大事にしていきたいと思う。








今振り返ってみると、中学のころに下した決断のおかげで、今が存在しているといっても過言ではない。あの決断ができなかったら、留学の経験もできなかったかもしれないし、こんなにも当事者意識をもって、自分の人生を生きていくことができなかったかもしれない。

その決断については、後ほどのべていきたい。


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