私の鏡 -高校生時代 Part 1 (価値観の創出)-

高校の三年間が今の自分の価値観の基盤を作ってくれたと思う。

価値観とは、何に価値があると認めるかに関する考え方。 価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。 ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断 (Weblio辞書)。

私の価値観、つまり自分が価値があると思うことは、「多様性」「成長」「主張」「新しい発見」である。逆に価値がないと考えることは、「思い込み」(自信)「言いなり」「理不尽」である。

今でこそ振り返ってみて、自分はこうゆう考えがあって、このような行動をとっていたのだなという発見があるが、その当時は、心の赴くままに、自分のしたいように、もしくは、しなければならないという思いから、無意識に行動を起こしていた。その行動が意外と、自分が今考えている「自分」という存在らしさから起きた行動だなあと、我ながらに思っている。

そんなボヤキは置いといて、自分の価値観を形成していった行動について振り返ってみようと思う。

私は神戸市立葺合高等学校国際科に入学した。

その理由についてはこちら。

名前の通り、国際交流や英語に力を入れる学部であって、受験も英語の筆記と面接で行われ、一年生のころは、英語の授業が一日の半分を占めることもあるくらい英語への注力がすごかった。学業はもちろんレベルも高かったが、そこに集ってくる仲間もとても多様性を富んでいた。みんながみんな勉強ができるわけでもないが、それは私たちにとって重要ではなかった。みんな、何かしら、「自分」、「個性」を持っているのであった。ダンスが大好きな子、友達を作ることがとても上手な子、黙ってはいられない子、入学したての自己紹介のときに四十人の前でモノマネを始めてしまう子、などなど、八十人一人一人が個性を持っていた。学年80人中70人ほどが女子であったが、担任には動物園のようだといわれるほど、とても賑やかなクラスであった。

そのような感性を持った仲間が集まったため、みんなどんな人であっても、「認め合う」ような考えが自然とついていた。

私にとっては、日本学校という存在が初めてであったため、蚊帳の外に出ることに対する怖さが少しあった。今までは、周りが同じようなバックグラウンドを持った小さなコミュニティで生きてきた自分が、いきなり、大海原に放り込まれた気分であったのだ。(詳しくは、上の記事を参照)

しかしその不安も一瞬で取り除かれた。自分は韓国人であると言ったら、それ以降、韓国語教えて!というような声がたくさん出てきたのである。自分の心配していたようなネガティブな反応は少しもなく、この”異端人”に対して興味いっぱいに話かけてくれたのである。この衝撃は自分にとってとても大きかったし、その時からだ、自分が自分のアイデンティティに自信を持ちだしたのは。

小さなコミュニティにいたときは、周りとのかかわりが少なかったため、勝手な思い込みが先行していた。そのため、自分のアイデンティティに自信を持てなかった。しかし、いったん勇気を出して外の世界に出てみると、意外とそのことを気にしない世界もあるのだ、ということに気が付いた。

それを可能にしたのは、やはり「多様性」が存在したからだと考える。多様性が存在してたことで、自分と違うことを認める、違うことが当たり前ということ、違ってもいいんだ、というようなことを教えてくれたのだ。

「多様性」がこんなにも自分が生きやすくしてくれた経験から、私はこの多様性は自分の中でかかせない価値観である。

この経験を通して、自分の中で、必要ないこともわかった。「思い込み」だ。言い換えると、「偏見」ともいえる。自分の思い込みのせいで、自分のいた小さなコミュニティの外はすべて、自分の敵だと考えていた。そのため、その敵と同じコミュニティに飛び込んでいくことが怖かった。しかし気づいたことは、自分のコミュニティの外には敵もいるかもしれないが、みんながみんな、敵ではないということだ。この「思い込み」を自分はこのタイミングで捨てることができたからよかったが、このタイミングをつかめずに、「偏見」を持ち続けている人はとてももったいないと思う。一旦勇気を出して、外に出てみて、いろんな世界を見てみればいいと思う。すぐにその偏見は解けないかもしれないが、思い込みから解放されたとき、今までよりうんと生きやすくなると思うから。

次に「成長」という価値観の成り立ちについて書いていこうと思う。

私の通った葺合国際科は帰国子女も多く、友達の英語のレベルが本当に高かった。その中で自分を置く中で私は自分を高めたいと考えていた。

入学当初、帰国子女の中で、すごい鼻が高い友達がいた。もちろん、英語は主席で合格するくらいめちゃくちゃできて、そこに関してはすごいなあとは思ったが、自分の中でいつか同じ土俵に立ってやるというふつふつとしたライバル心が生まれていた。もちろん実力だけで勝負をすると負けてしまう。そのため、私は違うところで勝ってやる、認めさせたると思ったのである。それから私は、定期テストといった努力で何とかなるものに関しては絶対に同じ土台に立ってやると決意した。

そこから私のチャレンジは始まった。定期テストはもちろん、ディベートの授業などでも準備できるものの関しては、徹底的に準備して、実力差を努力で埋めようとした。この努力を続けたおかげで、次第に実力も伸びていった。一番うれしかったこと、それは三年のころ、ついにその鼻高の友達がぼそっと言った。

「ユンは英語できるもんな~」

この言葉を聞いた時、ついに自分が目標としてたことがかなった気がして、とてもうれしい気持ちになった。

私が努力をする中で、自分を励ましたり、モチベーションにしたこと、それは「自分の伸びしろが一番ある」ということ。帰国子女はもうすでに英語ができている。もちろん実力ではまだ勝てないが、成長率としては私の方が断然に上にある。成長欲、達成欲が強い私にとっては、このような、自分よりレベルの高い人達がたくさんいる環境の方が自分を成長させることができ、変なプライドを持つこともなく、ど根性精神でやっていくことで、真の実力を手に入れることができるようになると思う。私はこれが私の強みだとも考える。自分の実力以上のところに入ることで、自分に内在した強い達成欲を生かして、その目標を達成するために、常に高みを目指して、そこでもがきながら、確実に、しっかりと、どんどん成長していく。

私は、周りの環境を自分に良い風通しとしての還元の仕方を知っていると考える。周りの環境と自分を融合させることで、自分の中でしっかりとした指針を立て、自分が満足いくよう努力をし、そこからどんどん高みへと進んでゆくこの習慣はこのころからついていたのだなと今になって思う。

成長欲が強かった私は、その成長の機会を海外留学というものに求めた。

たった三週間ではあったものの、短期のアメリカ留学の機会を手に入れた。今考えれば、とても熾烈な倍率をくくりぬけてよく通ったものだ、と自分でも少し感心する(笑)

そのころの自分は留学という魔法の言葉のせいで、留学にいけば英語ができるようになると考えていた。確かに、日本で勉強するよりかは確実に上達するが、たった三週間、現地の人が良く使う、教科書には出てこない言葉を学ぶことはできたり、少し自信をもって英語を喋れるようにはなったものの、言うまでもなく、英語が確実に上達したとは言えない。

しかし、この三週間で得たものは、英語の上達というシンプルなものではなく、もっと確実で、これからの人生を左右するほどの経験や考え方を自分に授けてくれた。

この三週間が残してくれたもの、言い換えると、三週間の中で自分の中で見つけた価値観、つまり価値のあると思うこと、それは、「新しい発見」「主張すること」である。

「新しい発見」が自分にとって価値のあることだと思う理由は、それが自分のワクワクの源泉になるからである。この、自己満足の十分条件に対して、「主張すること」が価値あるものだと考えるのは、自己満足の必要条件である。つまり、主張をすることが自己満足を実現するうえでの前提条件になるということである。

アメリカではじめてリンゴを皮なしでたべてみたらとてもおいしかった、アメリカの学校では授業中に寝ている生徒がいない、一定の時間になると、学生、先生が立ち上がり、胸に手を当て合衆国憲法を宣誓する、人種の多様さといった、日本では考えもしなかったこと、わかりもしなかったことを三週間生活する中で、発見した。その発見が自分をワクワクさせたのは、その発見を通して、その裏側にある背景を知り、自分の考え膨らませることを楽しんだからではないかと考える。たとえば、授業中寝てる生徒がいないという状況は日本ではごくまれであるが、アメリカでは、まず学生はよく寝るし、授業の仕方が参加型授業であり、生徒たちが小説の批評までもするため、その子たちにとっては、寝る暇がないのだなという背景が潜んであり、それを探し出し、自分たちとの差異を客観的に見てみることが楽しかった。

今思うと、私は分析肌なのかもしれない。発見した事象に対する理由をとても知りたがる。その理由を知ったあと、ほかとの比較をする中で、妥当性を検証しているのかもしれない。発見と、その理由を知る段階が、自分にとって新しいものであれば、そこから自分の考えの引き出しが一つ増え、理由を知りそれをほかの事例で検証するとき、また考えの引き出しが一つ増える。これが私の好きな感覚だ。

これは人付き合いにも当てはまる。人付き合いする中で、その人の中に発見があると、その理由を聞きだし、それと自分とを比較することで、それが自分とあっていようとなかろうと、自分の考えがどんどん増えていく。そう、この感覚だ。

このように、新しい発見を通して、それをほかのものに投影していく感覚が好きなんだろうなと思う。つまりそれが自分をワクワクさせてくれる。

自主性を重んじるアメリカに留学したことで、「自分の主張」を持つことがどれだけ大事かを学んだ。言わなければわからないということが基本のアメリカでは、推し量るということがあまりない。食べたくないものがあれば、無理に食べる必要はないし、みんなが外出する中でも家にいたかったらそれでいい。ただ言わなければわからない。問題に正解不正解はあるけれども、意見に正解不正解はない。意見を出すこと自体に意味があるのだ。おそらくそれは多様性があるアメリカでは、なくてはならないものであったのだろう。違う文化の中で育ってきた人が共生していくには意思疎通が不可欠だ。そのため個人個人が意見を発しながら、お互い理解しあいながら生きていくことになったのだろう。

この中で気が付いたことは、主張の内容がどれだけ大事かということである。これは同時に、意見を伝えるツールである言語は道具でしかないということを改めて感じたのである。

それから私は、ぼんやりと考えていた、大学でも外国語を勉強するという選択肢を捨て、もっと実践的な学問、経済というものに方向性を転換するようになったのである。



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