周りを気にする

周りのことを気にする。周りを気にするということは、自分とは違う周囲のことを気にかけずにはいられない、ということだ。「○○って思われてないかなぁ」「自分はこう思うけど、周りはどう思ってるんやろう?」これが周りを気にすることだと思う。おそらく、協調性を重んじるように教育されてきた日本人の多くの人が、この謎の病気にかかったことはあると思う、私もその一人だ。

この、「自分とは違う周り」に対する「違和感」があれば、それはストレスにもなりえるだろう。もっと言うと、普遍的なものに対する疑問や、異議があるとき、それを主張できない環境にいると、苦しいに違いない。

さっきも言ったように、私は、幼いころから周りのことを気にしてきた。詳しくはこちら。以下抜粋。


【私は、自分という存在をしめすために、周りからの期待を失わないよう(周りからの期待を失うことを恐れ)、周りの目を気にし、周りと自分を相対化することで、自分というものを見てきた。言い換えると、周りというフィルターを通しての自分しか見たことがなかったということだ。】


それゆえに、周りと自分が違うと感じることはあったのかもしれないが、それによって、ストレスを感じるといった被害は受けたことがない。だから、家でも学校でも、誰かに対して怒ることはあんまりなかった。

幼いころから「人は人、自分は自分」という教育を受けてきた。嚙み砕いて説明すると、人と自分は違う、本来は比較したり、並べる対象にはなりえないということだ。

だから自分と違うことに対して、もっと言うと、自分とは違う周りと合わせて生きていくのも、苦ではなかった。今になってわかったが、周りのことは気にしながらも、心のどこかで、「周りは周り、自分は自分」という意識があったから、その周りと自分のギャップを客観視できていたのかもしれない。

たしかに自分はこう思うけど、まあ周りの言うてることも納得できるしな。別に周りに反対する理由もないし、順応したほうが楽やし、なるようになるっしょ。といった調子である。必要であるかどうかは別にして、協調性、適応力で言うと、抜群であった。小学生のころの通知表の先生のコメント欄に、二年間、三学期ともに、協調性について必ず書かれていた。家庭訪問では、スポンジのようにあらゆることを吸収することが得意です、と言われ周りの意見を認める、受け入れることにたけていることを褒められた。

しかし、私は自分の自慢をしたくてこの文章を書いているのではない。ここで見逃していけないことは、その度に私は、主張をしてこなかった、ということである。客観視しているがゆえに、他人事であり、知らんぷりをしていたのである。周りと同じ船に乗るほうが安全だから。

その結果、私は主張をする機会を失った。自分は自分ということを知っているのにも関わらず、周りに合わせることに慣れてしまったせいで、その自分を見失った。

これが今私が感じている、私の危険であり、改善したいところである。

留学に来て、ものの見方がすこし変わった。意見をするべきである、理由が分かった。詳しくはこちら。


社会の中で、意見ができない人、意見をしない人がどれだけいるだろう?

それは本当に危険な状態だと思う。なぜ危険なのかもこの上の記事で(笑)。

意見をすることには勇気がいる、すこし怖いかもしれない、でも最初の一歩が一番重いだけで、走り出してみると、リズムに乗るように簡単になっていくと思う。私は最近それを体験しつつある。

はじめの一歩だけ勇気を振り絞ってみる。二歩目は自然とついてくるから。


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