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小説 電子禁煙 第七章 退職と引継

 世の中の働く人たちがなぜ働くかというとそれは働かないと生きてゆけないからであり、生きるとは、食べたり、住んだり、着たりすることであり、そういうことをするにはお金が必要になるので、お金を手に入れるためには働かないといけないということになる。だから、日々、虚空を見つめ、何の仕事も与えられず、やりがいなどという言葉とは無縁の販売促進部の皆であっても、働いているふりをして、給料という名のお金を手に入れているのである。お金、お金こそは万事の源である。
 そして、今のシメジにとっては、生きるためだけではない、もう一つの理由でどうしてもお金が必要だった。”国民的”アプリとなった電子煙草NEOの運営を維持していくためには、膨大なデータ量を処理するためのサーバが欠かせない。その費用として毎月給料よりも多くの支出があり、さらにその金額は規模の拡大に伴い毎月増加し続けていた。今のところはサラリーマンとして働いて貯めた預金を少しずつ切り崩しながら、なんとかぎりぎりアプリの運営を続けてはいるが、さらにアプリが普及し、データ量も増加し、ログデータも加速度的に蓄積されていくことになれば、もはや一個人の財布で賄えるスケールではなくなるのは火を見るよりも明らかだった。今のやり方ではそう長くは持ちこたえられないであろうとシメジも認識していた。
 だから、身動きが取れなくなる前に何とか手を打たなければならない。せっかくここまで来たのに金という情けない理由で終わらせてしまうことだけは何としても避けたかったのである。するようになっていたのである。今のところはサラリーマンとして働いて貯めた預金を少しずつ切り崩しながら、なんとかぎりぎりアプリの運営を続けてはいるが、さらにアプリが普及し、データ通信量も増加し、ログデータも加速度的に蓄積されていくことになれば、その支払い額は、もはや一個人の財布で賄えるスケールではなくなる。今のやり方ではそう長くは持ちこたえられないであろうことはシメジも認識していた。身動きが取れなくなる前に何とか手を打たなければならない。せっかくここまで来たのにお金が理由で終わらせてしまうことだけは何としても避けたかったのである。
 一方で、先日の死刑執行未遂以来、シメジは、自分が水面下でこっそりやっている様々な事が、社内で明るみに出るのも時間の問題ではないかと思うようになり、今のうちに退職したほうがいいかもしれないと考え始めるようになっていた。販売促進部所属の自分に退職を留意させるような上司や幹部はいないだろうから、退職すること自体は簡単である。「辞めます」と言えばそれで終わりだ。しかし、問題はやはりお金である。今でさえ、貯金を減らしながら運営している状態なのに、給料が入ってこなくなったら、果たしてどうやって遣り繰りしていけばいいのか。

 決してアイデアがないわけではなかった。まず、誰もが思いつくであろう解決策はアプリを課金制にするということである。アプリ自体を有料にしたり、ゲームであればアイテムを有料にするというやり方は多くのアプリが取り入れている。しかし、これにはひとつ大きな障壁があった。当初の成り行きから、アプリを偽名で公開しているので、当然そんな名義のクレジットカードや銀行口座は持っていないし、今から作ることもできない。売り上げの入金先が作れないとなれば、課金制にしたくてもできないのである。
 では、思い切ってこれを機にジミー・ウィンがシメジであることを公表すれば? そんなことをしてしまうと、NTの偉い人や怖い人が、徹底的に調べ、あることないことを武器に、圧力をかけてくるに違いない。今ですら、お客様センターは、山のように掛かってくるジミー・ウィン宛ての問い合わせのせいで殺気立っているらしいし、あのセンターの上司はその心労で倒れたという噂も耳にしたぐらいである。なので、とてもじゃないが、呑気に正体を明かせるような状況ではない。ジミー・ウィンのせいで社長が謝罪会見までさせられているのだから、その人物がNTの社員でしたなどとは口が裂けても言えない。
 理想としては『あくまでも、シメジという人とジミー・ウィンという人は全くの別人』であり、『ジミー・ウィンという人は架空の人物ではなく、どこかに実在する人物である』と皆に思わせ、その後、ジミー・ウィンにはどこかのタイミングでしれっと消えてもらう、手品のような入れ替わり。それがベストだ。しかし、どうすればそれが可能か。そんなことは可能か。

 課金の件はすぐには結論が出ない状態であったが、くずぐずしていると社内的に命取りになるような気がして、じっとしていられなかったので、とりあえず、退職のための下準備は進めることにした。
 そもそも、部下に何の興味もない上司だから、事前に根回ししておく必要もないだろう。となれば、やはり問題は、社内のデータベースに不正アクセスしていた件である。もしかしたら、今後、誰もずっと気付かずに、このまま何の問題にもならないかもしれない。しかし、もし後で発覚し、騒ぎになった場合、仮に退職していたとしても、きっと調査の手は自分へも及ぶだろう。だから、在職中に証拠を完全に抹消しておく必要がある。しかし、抹消が完全であるかなど、まるで魔女の証明であり不可能だ。抹消できたかどうか確認しするために、もう一度ログインして、うっかり証拠を残すことになるかもしれない。あるかないかは外から見てもわからず、ふたを開ければ状態が変化するかもしれない、量子学的不安。完全なる抹消はあきらめざるを得ない。もし証拠が見つかったとしても自分ではない誰かのせいになる方法。となれば、誰かに罪を擦り付けるしかない。おっほん、ガクブチくん、いよいよ君の出番だ。
 シメジと全く何の関係もなく、さらに研究開発や自販機の部署とも関係のない社員がデータベースにアクセスしたという証拠を、シメジが捏造してしまうと逆に怪しまれるに違いない。それどころか、「捏造を企んだ真の犯人がどこかにいるはずだ」と、よほど頭の悪い探偵でなければ推理するはずであり、これでは自ら墓穴を掘るようなものである。隅を擦り付ける相手は、この人ならやりかねないと誰もが思う人物でなければならない。動機と機会と手段を全て備えた人物。その点においてガクブチくんは、濡れ衣を着せられるのにこれ以上ない適任者であった。元情報技術システム部所属であり、コンピュータに精通し、シメジの有給休暇を盗んだ張本人。そんな社員がデータベースに不正アクセスした証拠が見つかれば、誰もそれを疑う人はいないだろう。動機がない? 「機密文書を社外に横流ししようとしただろ」と誰かが勝手にこじつけてくれるだろう。
 もし仮に、後日、シメジがデータベースにアクセスしていた痕跡が別に見つかったとしても、痕跡を捏造したと疑われるのはガクブチくん、君なのだ。

 そうと決まれば、見切り発車だが何とかなる気がしてきて、前に進むと決めたシメジは、上司に退職する旨を伝えた。予想していた通り、上司は何の留意も見せなかった。「退職届を出してほしい」、「後の手続きは人事部に聞いてほしい」と言われただけだった。
 仕事らしい仕事をほとんど与えられていないシメジであったが、形だけの業務引継書は作ることにした。これまでのNT人生を振り返ってみて、シメジは悲しくなった。広報部では最高にクールなアイデアを連発したのに却下されてばかり。そして、この部署に来た自分に課せられた業務は、週に一度の観葉植物への水やりと、月に一度のホワイトボードの曜日マグネット並べ替えだけであった。
 引継書を作る前に、一応ガクブチくんに事情を伝えておくことにした。重要な仕事を依頼するのだから、面と向かって一度は話しておいた方がいいに決まっている。
「ガクブチさん、私、実は退職することになったんです。なので、今、私の方でやっている仕事をガクブチさんにお願いできないかと思って」
「いいですよ、何の仕事ですか」
「大したことじゃないです。観葉植物の水やりと、ホワイトボードの管理です」
「それだけですか?」
「それだけです」(それだけじゃないんだけど)
「いいですよ、わかりました」
「じゃ、業務引継書ができたら、またお渡しします。よろしくお願いします」
 引継書はすぐに完成した。コピー用紙一枚の五分の一ほどに収まってしまうほどの内容だった。レーザープリンタから排出された引継書を手に取ったとき、シメジは、頭の中に電撃が走る感覚を覚え、次の瞬間、もう一つの未解決問題への妙案が出現した。こういうときにこそ「エウレーカ」と叫ぶのだろうとシメジは心の中で思った。

 退職の日。パソコンにインストールしてあったアプリ開発用の環境はすべてアンインストールし、関連するファイルもすべて削除、ゴミ箱も空にした。最初にこのパソコンを使い始めた時よりもすっきりした何もないデスクトップになっていた。念には念を入れて、壁紙もデフォルトに戻した。「来た時よりもきれいにして帰りましょう」と小学校の林間学校の時に担任が言っていたのを思い出した。
 これで、退職に向けての準備はほぼ終わった。すべて順調だ。あとは、データベースの奥底にガクブチくんの痕跡をこっそり残しておけば、すべて完了である。
「あのー」誰かが背後から話しかけてきて、驚きのあまり、シメジは5センチほど宙に浮いた。
「この観葉植物って、部長の横にあるやつだけですか?」引継書を手に持ったガクブチだった。
「あー、そうそう、それだけそれだけ。このフロアにある観葉植物はひとつだけだから。ひとつだけ。よろしく頼みます。よろしく」危ない。最後まで気を抜いてはいけない。シメジはガクブチが席に戻るのを確認してから、作業を続けた。
 ブラウザからデータベースにログインし、なるべくすぐには見つからないような、でも、明らかにガクブチくんがアクセスしたとわかる足跡を残して、シメジは最後のログアウトをした。さらにブラウザの履歴もすべて削除した。
 夕方、定時のチャイムが鳴り、シメジは席を立った。上司に形式的な礼と挨拶を言って、新入社員から勤めたNTを後にした。拍手で見送られることもなかった。ガクブチ君から盗まれた有給休暇は返ってきていたから、数週間は消化で休むこともできたが、不正の数々が明るみに出るかもという恐怖を抱え続けるのに耐えられなかったから一切使わなかった。こんなことなら、ガクブチくんに盗まれたままでもよかったかもなと思った。

 本社ビルを出て、外の空気を吸ったとき、退職する前と後で何かが変わったわけではないのに、シメジにはすべてが違って感じられた。着ている服も履いている靴も身の回りの空気すらもなぜか少し軽く感じられた。自分を縛っていた透明のロープから解放された気がして、シメジは両腕を振り回してみた。初めて退職してみて、退職することの解放感は退職してみないと分からないということを知った。歩道を行き交う人に「退職したんですよ、今さっき」「最高の気分なんですよ」「あなたも退職してみませんか」と声をかけて回りたいほどの爽快な気分だった。
 これから先も、やるべきことは山ほどあったが、シメジの心は活気に満ちていた。もう、誰かが背後に立っていないか気にしながらこそこそパソコンに向かう必要もない。情報技術システム部からのメールだってもう届くことはない。やりたいことをやりたいようにやれるようになった。ついに手に入れたこの自由を、最大限に活用しなければならない。まずは、ジミー・ウィンの亡霊を葬り去ることからである。

 退職から数日後、アプリストアの詳細欄に、開発者変更のお知らせを掲載した。シメジがあの時、コピー機の前で思いついたのは、ジミー・ウィンからアプリを”引き継ぐ”というアイデアであった。アプリの作者の問題も、引き継ぎという形式にしてしまえば万事解決できるのではないかと考えたのである。
「このアプリの開発者であるジミー・ウィン氏が一身上の都合によりアプリの開発・運営を継続できなくなってしまったため、知人である私、シメジがその業務と権利のすべてを引き継ぐこととなりました。今後の連絡先については連絡先情報ページをご覧ください」
 ”一身上の都合”、便利な言葉だ。連絡先ページには、シメジが新しく作ったメールアドレスと携帯電話の番号、そしてSNSのアプリ専用アカウントを掲載した。お客様センターの電話番号も消した。お客様センターの皆さん、ご迷惑をおかけしました。怒らないでね。これで、ついに謎の人物ジミー・ウィンは謎のまま葬り去ることができたのだ。そして、それはシメジは堂々とアプリの作者としてアプリの有料化を進めることができるようになったことを意味するのであった。

 それから数週間後、電子煙草NEOは、煙草の入手に関して、一部を有料化するアップデートを実施した。煙草は今まで通り、自販機のある場所に行けば手に入るが、その際に課金することでよりレアリティの高い煙草を一定の確率で手に入れられる仕組みに変更したのである。
 課金制度の導入に対して、最初のうちは、メールやSNSに多くのクレームが寄せられた。しかし、旧時代の煙草が一箱でランチ2回分程度の金額に対して、課金は1回あたりでそのランチの消費税分程度であったし、そもそも払いたくなければ払わなくても今まで通り煙草は手に入ったから、ほとんどのユーザーはすんなりとそのアップデートを受け入れた。
 個人にしてみれば、一回当たりの課金額はごくわずかであるとはいえ、それが数百万人規模で支払われるのだから、その合計は膨大であった。課金スタートからわずかな数時間で、シメジはNT時代の給料総額を上回る金を手に入れてしまった。そして、それは毎日増え続けた。食べることにも住むことにも着ることにも困る心配はもうなかったし、もちろんサーバ代も十分に賄えた。

 シメジが退職してから数か月後、データベースにバックドアとそれを利用した不正アクセスの痕跡が発見されたのと時を同じくして、ガクブチもまたNTを退職することとなった。表向きは一身上の都合である。また、NTが進めていた社内システムのクラウド化についても「想定外のトラブルが発生した」ために一時凍結。計画の見直しが行われることとなった。ソテイの上司は失神してそのまま入院していたが軽症でありすぐに退院。部下の管理不行き届きを理由として、お客様センターには戻れず、販売促進部に異動となった。情報技術システム部のツゲノキもクラウド移行プロジェクトの失敗を理由に、販売促進部へ異動となった。
 そんな混乱の中にあって、シメジの名を口に出す者などもはやどこにもいなかった。無関心の部署にいた一社員のことなど、皆の中ではすでに葬り去られ、忘れられていたのであった。
 そして、シメジがそんなNTの内情を知ることはなかった。

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