記憶と風景の遠近法 1

 玄関を出た私は右に進んだ。橋がある。橋の大きさは歩いて私の足で歩いて50歩ぐらいの大きさ、長さの道の橋だ。橋を過ぎると右手に木が見えてきた。緑色の葉が茂っている。紫色の花が咲いている。彩。その先にはまた右側、祠がある。お地蔵様がおらっしゃって、どなたかが掃除してくれているのであろう、いつもきれいになっている。している。されている。お供え物、お茶。赤い布の印象。道には茶色の葉。枯れ。落ち。道路の白い線より右側を歩いて進んでいく。再び木。栗の木。今は春5月。黄緑の毬も茶色のもない。栗と知っているのでこれは栗の木だなあと思う。その隣に駐車場。軽自動車が止まっている。銀色。道は二手に分かれて右の上に登る坂道。まっすぐそのまま私は進む。太い道沿い。少し下り坂。門構えの立派な家が見える。何人家族か知らない。反対側にも大きな家。大きな杉の木が庭にある家。チューリップが咲いている家。道はトの字の逆に三叉路。真っ直ぐ行く。道の脇には背の低い草。小さな花。薄青薄水色薄紫。私の左側の左側を後ろから車が通り過ぎる。風がやってくる。オブジェクトが揺れる。自動販売機。2台の異なるべバレッジ。信号が見える。まっすぐ青い。今はもう緑色としてそれを見る。交差点の先は徐々に道が下っているから、その先にあるY字路が見えない。また橋を渡る。私の足は30回着地して渡り終える。ほい、終えた。ちょっとした上り坂。時々すれ違う、とか、追い抜く自動車。自動車が私を。昔、ずっと昔にここにあったスーパーマーケットがだんだん緑色を褪せて。テの字の下半分みたいな三叉路。川沿いを歩く。川の底は茶色。水は透明。濃い赤色の屋根の家。平屋建ての老人には住みやすいような想像をさせてくる家。古い家。自動販売機の隣の家。そしてまた歩いていくと信号。いつも黄色の点滅をしている、役割分担の10対0の信号。食堂の前に黄色い看板。手書きで読みづらい文字が私との距離は。こっち側にはカラオケ屋というかスナック。だった場所。今は誰かの何かが置かれている誰かが置いているから倉庫ということにみんな勝手に思っているから。倉庫。正で5を数えるときに3のような形の道、分かれ道を3番目の道に沿って歩いていくとおしゃれでやっているのではない雑貨屋さん。雑貨生活用品屋さん。婆ちゃんの服とか塩とかを買える。隣に散髪店。くるくると白青赤回転体の電気が供給されているので回転しているから散髪店として考えている。道は狭いから両方から家の建物が迫ってくる。屋根雨樋サッシ。ガラスの向こうの液晶テレビ。机の上の食べ残し。などは視界の両端、立体感のないあたりにずっと居ている。酒屋、自動販売機。ずっとしまっている酒屋。自動販売機はティカティカとLEDの橙色のアピールをしてくる。当たりますという意味。潰れたコンビニエンスストア。駐車場が狭いとデメリット。狭い道は国道に合流したので交通量が突然増える。

 川に降りるには坂を下りる。くだりる。しかし道沿いを歩いていくから坂を下りらない。市役所が見えてきた。銀行が見えてきた、大きな家が見えてきた。整骨院が見えてきた。緑色の文字で整骨院と描いてある整骨院が体の右側に近づいてくる。体の右側を整骨院に近づけていく。直線運動における整骨院と体の距離。徐々に近づいていき、そして徐々に離れていく。今はもう離れていく。銀色の屋根の薬局の張り紙。街の電気屋はもうリタイヤしてシャッターをクローズしている。本当にリタイヤと云ってよいのであるか。店主はもう死んだのではないか。店主の死とシャッターの位置とシャッターの鍵穴。アイボリー色のシャッターにグレーの排気ガス成分が付着している。コンビニが見えてきた。コンビニの駐車場に黒い車。コンビニの駐車場の奥にはやや淡い緑色の、フェンスがあって、あの薄緑色はフェンスでしか見たことがないので、フェンス色したフェンスがあって、そのフェンスの向こう側には緑色の植物が生い茂る。緑とは植物のことなので、植物色した植物が、そこにおいてはその殆どが雑草と呼ばれているその植物群がフェンスの網目を通り抜けた風にたなびく。雑草が生えている土地は若干の傾斜になっており、傾斜を海抜の低い方から海抜の高い方へと進んでいくと時計屋がある。あるでよいのか、時計屋はとうの昔に店を畳んでしまっている。畳んでしまった店はそれでもまだ店なのか、店とは畳んでいない状態、つまりは営業している、休店日でなければ、店員が中に居て何かしらを購入できるコンディションを維持していてこそ、店なのではないか。ならばもはや誰もおらず何も買えないこの店は店か。細い道を歩いて進んでいくと、進むために歩いていくと、酒屋がありパチンコ屋があり喫茶店がある。道沿いにある建築物は概ね商売をしている。色あせて茶色かオレンジ色になりつつある赤い屋根のパチンコ屋。中から外へ音が小さく漏れる。小さい音を聞いて大きな音が鳴っていることを想像できる人間の能力。

 道はやや急な上り坂道の続くシチュエーションを維持しながらも右へ弧を描きまた左へも弧を描き、その繰り返しを繰り返す。アスファルトの罅が目立つ、センターラインの白色が削れてなくなっている。看板が見えてきた。楽しいことを伝える看板。楽しいことを手に入れるには右方向へ折れて進めば良いとの情報。交差点の交差を直進して進んでいく。左手の奥に小学校が見える。校庭の土の色は煎り胡麻の記憶を呼び起こす。校舎の向こう側にはいくつかの建物があり、それは民家や工場ではなくて背の低い、雑居ビルと云うと最も誰もが想像しやすいたぐいの建物であり、外観しか知りえない、内情はわからない。唯一わかることはその雑居ビルたちのうちの1棟の1階にはスナックのような雰囲気の紫色の窓ガラスと緑茶色のドアの喫茶店が入っている。スナックとしてのアイデンティティと喫茶店としてのアイデンティティ、その両方が1つの空間に存在しているのであるから、20歳になって自分の国籍を選択されらるる少年の心の有り様に酷似しているのか、米国は二重国籍でも構わないよ。道は狭まり自動車の進入も難しくなるほどの狭さとなり、左へ直角に曲がる。曲がった先には不動産の商いの店構えの店。数多くの部屋の図を貼られた窓ガラス。商談する店主と赤と黒と黄のチェックのシャツを着た客。店先に咲く花。プランターがそれらを養う土を保持していて、花は生命を継続させる。半年経てば種が取れるから、また来年もプランターに植えよう。そうしたらいい、そういたらいいと店主に伝えよう。フランス料理店は高すぎても安すぎてもいけないから、家庭料理のフランス料理の料理を出す店の価格はどうするべきであるか。輝度の低い緑色の壁のフランス家庭料理店は三角形の一辺、この場合は底辺の辺がない三角形の形状の黒板に白いチョークと黄色いチョークと淡桃色のチョークで書かれたランチメニューに1,280円と書かれている。その隣は昔から、おそらく70年前、この数値はまったくもって土台のない、土台とはすなわち根拠という言葉で言い換えられるとして、値であり、70年前から営業している自転車店でそういう自転車店は当然のことながら50ccのスクーターも修理を扱っているから、店内には50ccの古い、スクーターの歴史を皆が知っているわけではないのに皆が古いと分かる特徴を持ったスクーターが佇む姿が道から見える店舗の自転車店がフランス料理店の隣りにある。

 4とトが4トの形状で組み合わさり、4とトの間にノの線形で線路が入る道、線路と道路はほぼ同じ曲線を描き、その違いは高さ、線路は一段低いところを、一段というのは決して何かしらの基準を持っているわけではなく、人々の、とても曖昧な集団としての人々の感覚を平均した言葉である高さとしての表現を使う一段下が、電車の走る場所であるここでは。電車はいつも道路よりも一段下を走っているのではないことを人々は知っている。人々の共有された感覚を以てして表現される場所の道路を、写真館の店先の家族の写真を、その家族はどこに住んでいるのであろうか、なぜこの家族が選ばれたのであろうか、そういう事を思いながら、その隣の家具店、ソファがガラスの向こうに見えている店、それらを過ぎて、道を右へ曲がるとリフォーム業者の事務所ビルが左手にこぢんまりとある。家族、インテリア、リフォーム。3つめにやってきたのがリフォーム。建物の外側にのぼりがあり、キャラクターが描かれており、親しみやすさがそこに備わっている。ようこそというメッセージを伝えて、お客様はそのメッセージによってリフォームをしたい気持ちを担当者に伝えるべく建物の中に入っていく。その建物、きっと何か他の目的のために建てられたのであろうその建物は、ビルと言うには小さく、ぢんまりという音で表現するのがとてもしっくりくる建物であり、ぢんまりとは外へ広がっていくのではなく、やや内側へしかし継続的ではなく一定の位置で安定して萎縮しているように見る側に印象を与える様子であり、その建物はベージュと黄色とお茶色をまぜて白味を加えた光沢のある細かなタイルの沢山の量のタイルで外壁を覆っている。タイルは正方形でありその角はすべて90度である。これは正方形の説明である。正方形には正方形の説明が最もしっくりくる。リフォーム業者の結果の話。

 道の両側を薄緑色新緑の色の木々に囲まれた道をの新緑色の木々はその色の発色を太陽の光にいくらか由来し、それは春の日差しの幸福感の色である。幸福の色をした葉の木々は揺らめき、薫風の存在をドライバーと読者に伝える。進みゆくゆく道はやや上り、やや下り、緩やかに曲がる。急に大きく曲がり大きく下り、そして、hを鏡に写した道を、hをひと筆書きした場合の終点から出発して中間折り返し地点の方向へ進むとそこは急坂になっているから、移動している私が球体ならば自然と重力に従って加速していく。多くの食堂が提供しているうどんをやはり提供している食堂、みやげものやと読まずにどさんぶつやと読んでもその事によって土産物が存在しないことにはならないから土産物を買える土産物屋、ふたたび食堂。もはや誰も使わないから中に誰かがいることもないが誰かが中にいるように見えることもある電話ボックス。下り始めてから最初に登場する道路標識には20m先の道路構造と物体が移動した場合のたどり着く地名が書かれているから、それを道路標識として分類分けした。オレンジ色の、紫外線によってプラスチックが劣化してわずかに白味がかったオレンジ色の外側をしたカーブミラー、信号機はいま赤色LEDが点灯している、他の2色と合わせて機能する信号機は三叉路のために。三叉路は信号機によってそこを通る全ての通行物がコントロールをされている。さらに坂道を降っていく。おりっていく。くだっていく。スーパーマーケット、ホームセンター、とても広い駐車場、とても広い第二駐車場、そこにたくさんの止まる、停まる、駐まる自動車などの乗り物類。便利な道具。便利な道具で移動した人たちは便利な道具を買いに来ている。便利の代名詞を右手に見ながら進んでいくと、徐々にコンクリートに囲まれていく閉塞した道路の左右が高くコンクリートの存在が続いていて、そして上方もつまり仰ぎ見てもそこには青空はなく、青空がないのはそれが曇りの天候の所為ではなくそこにコンクリートの、コンクリートは更に上を通る道路を支える建築物の支えの重要な役割を担っているコンクリートが頭の上にある。少しのあいだ、コンクリートに三方を囲まれて、灰色灰色灰色、足元はアスファルトの濃い暗い青黒色は光沢を持たない色。それらの4色に囲まれている空間を誰かが誰かたちがいつだか作って今ある。

 1つの道の2つの箇所がどちらが先にやってくるかがどうしてもわからない道の最初にやってくる、道は動かないのだから、やってくるのではなくて移動する私が辿り着く、その場所は、小さな峠道で山を少し上って少し下る、漢字の成り立ちどおりの動きのあとでそこを通り過ぎる。何も印象に残らない道。下り始めた道の脇が少し広くなっていて少しゴミが捨ててある。少し理性を欠いた人間が捨てたのだろう。道は国道の道の太さを保ってそこを移動するものに安心感を与えながら、Yというよりはλが90°時計回りに回った道の右へと進むと更に右へ進んでT字路を左へ進む。自動車整備工場があり、トラックが停まっている。弁当屋がある。肉屋がある。肉屋が経営する焼肉屋がある。速度を上げる。なぜなら同じような街並みが、このほぼ直線の道路に3度やってくる。どちらが先にやってくるかわからない道路を超えたばかりなのに、どれから先にやってくるかわからない3度の街並みを通り過ぎる道を通りて過ぎゆく。店も会社も民家も同じものは1つとしてないのに、そこの道の街並みはおよそ同じでいてずっと同じでなくて、漠然と始点と終点があり、その中間に穏やかなクライマックスがある。そういう盛り上がり方が3回あるのをこの道は備えている。そのことを説明するためには速度を上げて、今はもうその3度めの街並みを過ごして3度のクライマックスを思い出してみるけれど、やはりそれらは渾然一体としてしまっていているから、きちりと分けることができない。空間的移動は記憶の中で時系列的情報として保存されている、なんてことはなく、1本の道路の直列につながった空間が今はもう記憶の中で並列に存在していて、出口側から覗き見ても味噌とだしと水のことを味噌汁というのと同じでことだと思い、分けることを諦める。

 新しく整備された国道と川と旧道は平行に走る。三本の線、まるで三の字、川の字、その真中の一本は川なので、空間を表す新しい漢字は5本の直線で表すべきなのか、しかし象形としての正しさは三本の直線であるから、5本なのか3本なのか。旧道は山の麓を、山地の麓を、その麓に沿って走る。それをいま国道から眺めながら、国道を進む。その先はもう確定されていない。

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