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日本史:飛鳥時代 ① 「新しい国造り」

 通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。

飛鳥に宮都が置かれていた592年から710年に平城京に遷都するまでの118年間。大陸から仏教や政治制度が伝わり、それが日本に広がっていった時代です。この仏教文化は飛鳥文化と呼ばれています。

新しい国造り

592年 第32代「崇峻」天皇は、政治の実権を握っていた蘇我馬子の不満を持っていました。それを察した馬子の指図によって暗殺されました。

翌年、馬子の要請で、第33代「推古」天皇が女性として初めて天皇となりました。そして、政治の補佐を行う摂生として、甥である「厩戸皇子」すなわち「聖徳太子」が任じられました。馬子も含めこの3人を中心に、新たな政治を進めていきました。

600年 先進的な中国の文化・制度を学ぶために、「遣隋使」が派遣されました。この使節は、18年の間、随が滅ぶまで派遣されました。

607年 「小野妹子」が派遣され「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の国書を持参しました。これを見た随の隋帝は立腹したといいます。608年、614年の派遣では、遣唐使にも派遣された「犬上御田鍬」が参加しています。

603年 聖徳太子は新たな政治制度、「冠位十二階」を定めました。この制度は、これまでの氏姓制度の下、家柄によって地位が決まっていたものを廃止して、能力によって役職を決めるというものでした。朝廷に使える臣下を、十二等級に分け、その地位がひと目で位がわかるように冠や服を色で分けました。紫が最高位を示す色として定められました。

604年 官僚たちの道徳的規範として、「十七条憲法」が定められました。
第一条は、「和を以て貴しと為す」とされています。日本人の「和」の心はこの時代から始まったのかもしれません。
第二条は、「篤く三宝(仏法僧)を敬へ」とされ、仏教を国の宗教として取り入れたことを示しています。
第三条は、「詔(天皇の言葉)を承りては必ず謹め」とされ、天皇中心の「中央集権」国家を目指したことがわかります。

622年 斑鳩宮で倒れた聖徳太子が亡くなりました。墓は、大阪府南河内郡太子町にある叡福寺北古墳とされています。

626年 聖徳太子が亡くなった4年後、蘇我馬子も亡くなった。墓は、奈良県明日香村にある、巨石の石室がむき出しになった「石舞台古墳」とされています。

石舞台

628年 推古天皇は75歳で崩御しました。陵は、大阪府南河内郡太子町にある山田高塚古墳と治定されています。


仏教の広がり

596年の丁未の乱で、仏教に反対していた物部氏が破れたことにより、仏教が政治に取り込まれていきました。また、この戦いに際して、蘇我馬子、厩戸皇子はそれぞれ、戦勝を祈願して寺院を建てることを、仏に誓願しました。そして戦いの後、その誓いを守り寺院を建立しました。

厩戸皇子は丁未の乱の最中に、四天王像を彫り「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立する」と誓願しました。そして、593年、摂津国(現、大阪市天王寺区)に「和宗」総本山である「四天王寺」を建立しました。このお寺は、今でも、お太子さまの寺として信仰を集めています。

馬子も勝利を祈願して、寺院の建立を誓願しました。そして、596年に「法興寺」(現、明日香村の飛鳥寺)が完成し、日本で初の本格的な寺院となりました。後に平城京に遷都したときに、奈良に移転され「元興寺」となりました。この奈良の寺は、世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つで、本堂は国宝に指定されています。

607年 聖徳太子は、父である「用明」天皇のため寺「聖徳宗」総本山である「法隆寺」、別名「斑鳩寺」を建立しました。 特に、西院伽藍(金堂(国宝)、五重塔(国宝)など)は、世界最古の「木造建築」として国際的にも著名です。
東院伽藍には、八角形をした「夢殿」(国宝)があり秘仏とされている国宝「救世観音菩薩」(国宝)が収められています。法隆寺には、多くの国宝があり、釈迦三尊像、百済観音像、聖徳太子像、玉虫厨子などがあります。

奈良県生駒郡斑鳩町にある、法隆寺および「法起」寺は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「法隆寺地域の仏教建造物」として登録されています。

622年 京都最古の寺院である「広隆寺」が建てられた。渡来系の秦氏の氏寺で、聖徳太子を本尊として祀っています。また、清楚で気品あふれる顔に、細く繊細な指を添えている「弥勒菩薩半跏像」(国宝)が蔵していることで知られています。
広隆寺の「牛祭」は京の三大奇祭の一つに挙げられています。仮面を着けた摩吒羅神が牛に乗り、四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が松明をもって四周する。平安時代、比叡山の源信が阿弥陀如来を拝する念仏会を行い、祈祷したのが始まりとされている。

644年 百済の聖明王より献上された仏像を祀ったのが、信濃の「善光寺」の始まりだとされています。538年に物部氏が「難波の堀江」に打ち捨てたこの仏像を、信濃の本田善光が見つけ、それを信濃に持ち帰りお祀りしたのがの始まりとされています。この仏像、「一光三尊阿弥陀如来」は、日本最古の仏像と言われています。


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