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夏休みと猫と関ヶ原

つかの間の夏休み、帰省がてら関ケ原で遊ぶ。

小学生の娘が夏休み中の暇つぶしに、「ねこねこ日本史」というアニメにハマった。日本史の徹底的なねこ化。日本史は、高校で二次試験用に勉強したので、そこそこ理解しているつもりなのだけど、これちゃんと史実どおりだよな、と見ていて少し不安になる。(そこはNHKを信頼することにする)

関ケ原の古戦場記念館、という比較的新しくできた資料館で、このねこねこ日本史のコラボ展示がされている、と聞き、目を輝かせて娘は楽しんでくれた。隅から隅まで歴史資料の展示をしっかり見て回るとか、今までだったら、考えられない。

新しい施設だけあって、とても工夫がいたるところに凝らしてあって、とても楽しかった。昔、関ケ原を訪れたときは、石碑くらいしかなくて、やっぱり娘もおぼえていなかった。

きっかけがあると、急に知識が身につく、というのが小学生だったりする。私の日本史の知識も、半分くらいゲームの影響から始まっている。図書館で日本史の資料集を借りたりと熱心に調べ物をしている。

子どものころ、歴史にそんなに興味はなかった。もちろん調べれば面白いし、知識があれば、旅も楽しかったりするけれど、学ぶ意味とかは特に考えなかった。いまはどうだろう。

ひとりひとりの思い出や日記の積み重ねが歴史なのかといえば、必ずしもそうではない。歴史に残らなかったもの、こぼれ落ちたもの、誰にも知られず生きた、その証がいまだ明らかのなっていない生活の歴史のほうがきっと多い。

戦いの記録や傷跡は、残る。関ヶ原もまた大きな戦いの場で、歴史を大きく動いた場所だ。でもそこで亡くなった何万の命のそれぞれ語られない。平和は続いていく「状態」であって語られにくいものだけど、戦いは「出来事」で語られやすい。

今日も、一日無事に、過ごせた。その毎日がずっと続けばいい。けれど、歴史に残るのは、そういう無事に過ごせた日々じゃなかったりする。

いまは、出来事としての歴史よりも、小さなひとりひとりの生活の連続のほうに興味がある。ひとりひとりの生活に、その時代の歴史が見え隠れする。歴史が面白いのは、そういう生活から歴史が垣間見える瞬間や、大きな歴史の波との生活のズレを感じるときだ。でも、それを楽しむためには、一度大きな歴史の流れを習っておかないといけない。勝ち残ったものが語ってきた歴史だけが事実だと思わないけれど、その流れは知っておいてほしいと思う。

関ケ原を学んだところで、今度は大阪城にでも連れて行ったら面白いかもしれない。私の夏休みは終わるけれど、娘の夏休みは続く。やっぱり昔、暑い夏の日に大阪城に行ったけれど、覚えていないだろうから。


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