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弱者男性は誰から何を奪われているのか

以前にも、この話題に触れたことがある。何度でも出てくる話題だと思うので、繰り返し同じことを主張したい。

東京大学の構内に立てられた看板に、「弱者男性が婚姻の自由や生殖の権利を奪われている」と主張し、それに対し、抗議文を出した、というもの。

誰も、男性の自由や権利を奪ったりはしてない。
けれど、彼らは奪われている、と思っている。誰に?

この看板は、その矛先を誰に向けているのかを具体的に示してはいない。もしかしたら、そういうルッキズムがまかり通っている社会への憤りを表しただけなのかもしれない。

けれど、「婚姻の自由」や「生殖の権利」がこれまでの歴史や今の世の中で実際に奪われてきて、弱者とされてきた者は誰か、ということは、この看板を立てられた敷地にいる人は、ある程度、文脈的に理解しているだろうと思われる。その言葉をもって切実に訴えてきた人がいる。これまで切実に訴えてきた女性やマイノリティの当事者たちが、借りてきた言葉で投げやりに書かれた看板に怒り、抗議を出している。

たまたまその言葉を選んだのではなく、意図的に選んでいる、もしくは意図的でないのだとしたら、選んではいけない言葉を選んでしまっている(男性に対して生殖の権利なんて表現はふつうしないので、あえて使ってるとしか思えないけれど)。同じ言葉で、最初から奪われていないはずのものを私たちにも寄越せという。わざと同じ言葉を使うことで、「分かる人には分かる」メッセージにし、一見すると何が問題なのか、分かりにくくしている。でも、その言葉で戦ってきた人には気づく。
「看板を立てる」という行為にどれほどの意味があるかわからない。けれど、それは全く対話にはならない、一方的な主張でしかない。

だから、「そうじゃないよ」と抗議している。

戦う相手がいるとすれば、それは社会のなかの古い規範で、多様性に不寛容な世界だ。抗議文の内容はとても分かりやすく、すっと入ってくる。

誰も、なにも奪ってない。

でも、若い世代にそんな「奪われた」という感覚でその看板を書きなぐるような気持ちにさせてしまっている、いまの社会のおかしさもまた悲しく思う。古い価値観と新しい価値観が交錯しているからなのか、あるいはなんでも自己責任として見做される社会のせいなのか、いずれにせよ、やり場のないそんな苦しさを、社会を分断させることなく救いたい。


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