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「しょうがない」を受け入れないために、自分を責めすぎないで

みんなで我慢して、じっとしていても、社会はたぶん変わらない。

「自分はこうしたい、こうありたい。」という気持ちと、社会の側はこういう態度を求めているんだろう、という諦めにも似た予測。そのせめぎあいのなかで、だいたい私たちは結局我慢を強いられている気がする。

自分を脅かすような抑圧を「しょうがない」と受け入れてしまうと、もっと弱い立場のひともさらに抑圧されてしまう。こうした抑圧の再生産や連鎖を断ち切りたい、そのために公平でない仕組みやひとの権利を侵害するような風潮にNOと言いたい。

「しょうがない」といって何もしないことを選択しないのは、だれかが苦しんでいること、悩んでいること、傷ついていることに目を背けず、社会のなかで声を上げ続けていくことだ。おかしいことをおかしい、と言わずにその環境の中に身をおいていると、いつのまにか感覚が麻痺してしまう。「世の中、そういうものじゃないのか」「どうせ動いてもしかたがない」。それは、痛みを無視して我慢を押し付け合うだけにしかならない。

だから、ささやき声でもNOという声をあげていく。「組織のルールだから」「みんなそうしているから」。その「みんな」って一体だれなんだろう。あいまいな大きな主語のなかで、「わたし」の存在は薄れていく。もっと「わたし」の権利を主張してはいけないのだろうか。

自分の権利を主張する、ということに、わたしも慣れていない。権利を学ぶ機会には、自分以外のほかのだれかの権利について、たくさん学ぶことはあっても自分の権利をどう主張していくか、ということについて学ばない。学校の人権教育って、わたしの記憶ではそんなふうでしかなかった。もちろん、障害のある人の権利、日本に暮らす外国人の権利、少数民族の権利、色んなものを学ぶのも大切だけど、そもそも自分が持つ「子どもの権利」や社会の中で生きていくための権利を学んだだろうか。

権利を主張すること、声を上げること、それ自体がどこか息苦しい、強く気持ちを持っていないと、簡単に叩かれて折れてしまいそうになる。そんな空気のなかで、戦っているたくさんの人がいる。でも、どうか自分を責めないでほしい。声を上げても変わらないことは、自分の力不足のせいではないし、一度「しょうがない」という楽な態度を覚えてしまうと、誰しもそこから抜け出すのはとても難しいし、一人の力で動かせるものでもない、と思う。

少しずつ、味方をつくって、主張するひとを増やしていくしかないのだけど、地道な作業はとても疲れる。ちょっとしんどいな、と思ったとき、自分の無力さを感じたときはゆっくり休んでほしい。声を上げているひとは、とても強い心を持っている。けれど、心は消耗しやすいし、体の傷よりもずっと気づきにくい。自分を責めすぎないで。見たくないものを、無理に見ないで、美しいものや自然や言葉を取り込んで、ください。


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