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「さわる」と「ふれる」

「さわる」ことと「ふれる」ことはたしかに違う。

「さわる」はなんとなく強い感じ、物質的な感じ、何かを探る感じがある。「ふれる」はどこか優しさやぬくもり、相手への計らいを感じる。

『目の見えない人はどのように世界を見ているのか』からはじまり、視覚障害や吃音、記憶など身体の不思議な感覚を、そのままに描き出して考察する、伊藤亜紗さんという研究者がいる。

彼女の新しい著書、『手の倫理』ではそのような「さわる」「ふれる」の違いや物理的なコミュニケーションの仕組みについて、面白くとらえている。

最近私がよく考えている「安心」と「信頼」の話もこの本でも語られている。

いま、「ふれる」ことが難しい、それ自体がなぜか不浄にさせられる社会的な状況にある。いうまでもなくコロナウイルスのせいだ。「ふれあい」が難しい社会はなんだか窮屈だ。いろんな人がさわる図書館の本を消毒するために、図書館の開館時間は短くなっている。人と人が集まるときには、たくさんの注意書きが必要になる。

うちの娘はよく、くっついてくる。大きくなって小学生になっても、ふれられることを求めてくる。彼女にふれるとあたたかいし、ほっとする。たぶん同じ気持ちを共有している。

「ふれる」ことで伝わるやさしさ、ふれられることで得られる安心感、そうしたものは捨てないでいたい。「ふれる」ことには何らかの気持ちがともなっていて、それによって自分の内側にもなにかしらの変化を与えてくれる。

同時に、文字だけでの、あるいは触れられないときの、コミュニケーションでの温かさややさしさの可能性も考えてみたい。私は文字でしか上手く語れないことも多いから。

世界は私たちの事情に関係なく変わっていく。でも、ふれられなくても、温かい言葉の世界もまたあるように感じている。どれだけ言葉を尽くしても、「ふれる」ことの信頼性には敵わない。けれど、そういう言葉の弱さも、弱いからこそ安心できることもある。「ふれる」ように相手に言葉を送りたい、と思う。



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