「くすっ」の心理

毎朝起きて、noteを書く前にnoteを読む習慣ができつつある。

毎朝、林伸次さんの文章と吉玉サキさんの文章を読んで、「今日もありがとうございます」と勝手に手をあわせる気持ちになって、冷めかけたコーヒーを飲んで、深呼吸をする。

note歴が浅いので、これからもっともっとたくさんの文章と出会えることを想像すると「こわい」と「わくわく」が交差する。

「こわい」のは自分の文章のレベルを思い知らされるから。「わくわく」は、日本語を勉強中の人間にとって、毎日文章を読んで、吸収して、の場があることが幸せだから。今、人生で一番日本語を勉強している。日本の学校に行ったことがないので当たり前だが。

例えばライターさんの集まるゼミに顔を出すと、中学生が大学の講義に紛れ込んでしまったような気持ちで聞くことになる。

講義の内容は理解できても、例えば「こういう面白い文章が人に届く」と聞くと、応用が難しいなぁ、私には、と弱気になっていく。

その前にその面白さの本質を知る必要があるというか、もっとベーシックなところで、「こういう言い方は上から目線になる」「こういう言い方は一見自信がなさそうでもしっかりと軸がある」「こういうことに人はくすっと笑う」などを知るところからのスタート。

この「くすっ」が、とても難しい。

日本で生まれ育った夫によく「お笑い好きだね〜」と言われる。そう、私は日本の芸人さんたちを眺めているのが大好きだ。お笑いがわかるということが、その文化を理解する第一歩だと思うから。

世界中の誰もが、笑顔を交わせば、相手に「気持ち良さ」は伝わる。

でもそのフレンドリーな笑顔の奥の「心の笑い」を理解するには、やっぱりその人の考え方や発想の源や心境を理解する必要があると考える。

日本に来たばかりの頃、日本のお笑い番組を見ては「...?」となり、それでも深夜のお笑い番組に惹かれ、見続けた。わかりやすく笑えるところは一緒に笑うけれど、隣の人が「くすっ」となるところとかが、やっぱりよくわからなかった。ツッコミで頭を叩くことも、もちろんわからなかった。

最近、自分の心の軸がすこーし変わってきたかもと思ったのは、日本の芸人さんのお笑いに「普通に」笑うようになったからではなく、アメリカのコメディアンのスタンドアップなどをポッドキャストで聴きながら「ふっ」と笑った時に、「なんで今のが面白いんだろう?」と考えるようになったことだ。(アメリカのコメディアンが起こす笑いは、なんとなく「くすっ」ではなく「ふっ」という感じ。少なくとも私はそう。)

「これ、日本じゃウケないはず」と思ったり。あらためてアメリカのユーモアは「皮肉」から生まれることを考えてみたり。表情一つ変えず、淡々と語るあの感じ。(でもそれはそれで、本当に「天才」という面白さなのです)

「笑う」というのは仲良しへの一番の近道だけれど、「一緒に笑う」というのは一番深く、遠いのかもしれない。

今、私の日本歴が少しだけ長くなって、今年3月にアメリカから来たばかりの弟と一緒にいると、私が「くすっ」となって弟が「What?」となるケースが多いことに気づいた。

始まった。彼の、日本文化を知る旅が。

話はそれてしまったけれど、noteで読む文章はくすっと笑わせてくれたと思ったら、同じセンテンスでジーンと心を打ってきたり。ライトなタッチでライトではないことを伝えているその様子に、毎日勇気をもらっている。

いつか書けたら。笑いや癒しを提供できたら、最高ですね。



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