国境を「超えない」
何故だかこれまで、
「超える」ということばについて
考える事が多かった。
そのせいか、
先日、目にした小説家の温又柔(おん・ゆうじゅう)さんの記事がひどく心に残っている。
その記事は、
昨年末に東京国立近代美術館で開催されていた「アジアにめざめたらーアートが変わる、世界が変わる1960年代-1990年代」に際して、温さんと企画者側の鈴木勝雄さんとの対談の様子が書かれたものだ(記事はこちら:「国境を超えない」視点をかき乱す緩やかな往来ー小説家・温又柔に聞く)。
その中で、日本と台湾との視点をゆらぎながら表現していく温さんは以下のように語っている。
"歴史は、すでに凝り固まったものとしてとらえられがちです。国民国家の境界線についても、大多数の人は揺るぎないものだと思い込んでいる気がします。ですが私には、どちらもそんなに確固としたものに感じられないんです。"
歴史や国民国家の「固さ」
「歴史」と聞いてなんとなしに想い描くもの。
例えば中学・高校の時に習った世界史や日本史を思い出す人もいるかもしれない。
僕の高校では、世界史のテストは丸ばつ形式で、「歴史」上の登場人物(だいたいが男性)の名前を覚えて、出来事の年数(以後よく伝わる)を覚えていれば90点は簡単に取れた。
「歴史とは固まったものだ。」
そのイメージは知らぬ間に自分の中にもすべりこみ、いつかそれに疑問を抱いたりしなくなるのだろう。
それが、肩凝りみたいに、凝り固まっている、という意味だ。
国民国家の境界線についても同様だ。
「それは世界地図にすでに引かれていて、揺るがないもの。」
温さんは、そんな「歴史」や「国家の境界線」について、疑問を投げかける。
簡単に国境って超えられるのかな?
温さんはさらに、以下のように語っている。
**"国境線がはっきりと見えている人たちにとっては、台湾人の私が日本語で書いているだけで「国境を越えている」ように見えるようなのです。でも私自身は、全然、国境を越えている感覚がないんです。なんというのか、自分の中に日本と台湾のこちらとあちらを隔てる複数の線が何重にも引かれていて、どれか一本だけを自分の絶対的な基準にすることができないでいる。そのせいか、そんなに簡単に国境って越えられるのかな、といつも疑ってしまうんですね。" **
国境を越える、という言葉はなんだか素敵な言葉だ。
複数のルーツを持つ人に対して、あなたは国境を超えているね、という事は、なんだかよい褒め言葉のような気がする。
そんな感覚にもならないだろうか?
自分自身もそんな感じで超えるという言葉を使う時がある。
しっかりとした"こちらがわ"と、
しっかりとした"あちらがわ"が、
しっかりと設定された舞台において
しっかりとしているが故にその間に
くっきりと引かれた線を「超える」ことができる。
しかし、
立ち止まって考えてみる。
温さんの言葉に耳を傾けてみる。
そもそもその〈設定〉ってどこまで絶対的なものだろうか。
そんな思いが巻き起こる。
だからといって両者は同じものではない。
確かに、「隔たり」はある。
しかし、揺るぎない一本の線が、くっきりと引かれていて、両者をはっきりと区別しているのだろうか?
温さんの視点は、
そこに確かにある、
そのゆらぎを、ことばで示している。
いくつもの線を、言語で記している。
ゆらぐ線、
複数の線を、
そんなに簡単に超えることはできない。
たしかに難しいことだ。
両者のあわいで宙ぶらりんとなる感覚。
一見、不安定になる言葉かもしれない。
でも、「超える」という言葉について、躊躇いをもつ自分には、温さんの言葉が、とても何故だか安心できる。
「国境を越えて、人種の違いを超えて、性別の違いを超えて、」
という言葉は、なんとなく良い響きを持って聞こえてくる。もちろん、その言葉のもつポジティブなニュアンスを否定するわけではないし、良くないものとも考えていない。
でも、それらはそんなに簡単に超えられるものだろうか?と考えてみる。
人種って超えるもの?性別って超えるもの?
超えられる立場にいる人は誰だろうか?
超える事を許してくれる立場にいる人は誰だろうか?
両者の隔たりを、簡単に飛び越えないで、じっくりと見つめて、そこから言葉を紡いでいく。
くっきりとした二分法は、物事を単純化させるため時に強い説得力を持つ。
しかし、その二分法から捨象された世界がいかに多様であるか、その視点を忘れないようにしていきたい。
温さんの言葉を聞いて、そんな事を考えました。
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