「答え」が得られる記事をつい求めてしまうこと
ある人が言った。
「この記事は、テーマについて理路整然と情報を並べていて、あまり知られていない微細な点も調べている。その上で、現状の問題点を分かりやすく批判している。
でも、この記事には具体的な対応策が提示されていない。
問題があるのはわかるが、その解答が提示されていないのだ」
ウェブ記事や新聞やニュースを見ていて、こんな反応が聞かれる時がある。「答え」を教えてくれるハウトゥー本・指南本はよく売れるし、当然といえば当然の反応かもしれない。
そのテーマについて、「答え」を要求されるのだ。
さらに、「○○は▽▽だ、だから◻︎◻︎すべきだ」というように、
読者や視聴者に「答え」を提示する記事は番組は、どこか説得力があるようにも思える。
答えを示す事は、いかにも正しい事であるかのように感じられる。
しかし、
答えを提示する事によって、読み手側にはどのようなことが起きるだろうか?どのような感覚を得られるだろうか? 答えを提示する事による効果とはなにか?
クリアな答えが提示される事で、読後感がスッキリとする。読者がなによりも楽になるのだ。
読み終わった後、なんだかムズムズ、モヤモヤするようになる記事はどうだろうか?
なんとなくスッキリしない感が残る。そんな記事は、読者にとって楽ではない。
答えがなぜ楽になるのか?
それは、もしその答えに自らが完全に納得した場合、そのテーマについてそれ以上考えなくてもよくなるからだ。
そんなふうに、答えを性急に求めすぎる事について、少し立ち止まって考えてみたいとも思う。
果たして、そのムズムズとした、モヤモヤとした読後感は、悪いものなのだろうか?
そのムズムズやモヤモヤの正体。それは、その記事で書かれているテーマについて、自分はこう思う」と、自分自身の考えが生まれる時に感じるものなのではないか?
小学生や中学生の時に、背が伸びる時に感じるあの成長痛の痛みのように、それは悪いものではなく、自分の中に新たな思考を発展させるきっかけのサインなのではないだろうか?
当たっているか間違っているかは別にして、そのように考えてみることは一つ面白いアイディアだと思う。
そのテーマについて他者が考えていることと一致していて、「うん、納得!」と頷ける記事にはモヤモヤやムズムズは生じない。
他者が示した考えに対して何か違和感や齟齬を感じる時、受け取り方や感じ方に微細な差異を覚える時、そこにモヤモヤな読後感が生じる。それは、他者の考えに対して、自分自身は「こう思う・考える」という思考が生まれるからだ。
そのテーマが切実だと感じるのなら、答えを求めるのではなく、思考し続ける方向を選択し続ける事は大切なことではないだろうか?
時間が経過すれば状況も変化し、問題自体も変化し続ける。その中のある時点で、確実で不変的な答えを提示することはできない。
もし、提示されたその「答え」が、そのテーマについてそれ以上考えないように、思考停止に導くものであるのなら、それはこわいことだ。
議論は続けていく事が大事だ。
もちろん区切り区切りで一つの解を出すことは大切だ。しかし、その解が得られた事で安堵せず、議論のプロセスを重ねを辿り続けていく事はさらに大切なことだと思う。
「答え」は、他者から与えられて安心する事もできるが、自分もその議論のプロセスに参加して辿り着いていくこともできる。
情報を淡々と示して問いを投げかける、そんなモヤモヤさせられる記事も決して悪記事ではなく、議論を喚起する意味で良い記事だと思えるのだ。
答えを提出する言葉ではなく、
議論を喚起する言葉。
思考停止が蔓延するのではなく、
誰しもが社会について当然のように語りあえるように。
モヤモヤな読後感を与える記事は、
読者が自分自身で「答え」を思考する事につながる魅力的な記事なのではないだろうか。
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