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私の母は「戦争の落とし子」だった。

「戦争の落とし子」

そんな言い方ってあるだろうか…。

Goo辞書にはこう書いてある。

おとし‐ご【落(と)し子】
の解説
1.1 妻以外の女に生ませた子。落としだね。落胤 (らくいん) 。
1.2 大きな事件・事業などに付随して生じた物事。「戦争の落とし子」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/落し子/

戦後、日本の女性と米兵との間にうまれた子どもはメディアで「戦争の落とし子」と言われた。私の母も、戦後に生まれた混血児だった。

1967年1月25日の『朝日新聞』の第一面には「今日の問題」という小見出しがつけられてこの事件が取り上げられたが、その冒頭で以下のような表現が記されている。

戦争の古いキズあとがいまざっくりと口をあけ、われわれの前につきつけられた思いがする。
混血児――この戦争の落とし子の存在を、われわれはいままでつとめて忘れ去ろうとしてきた。あまりにも苦しく、恥辱にみちた記憶と結びついていたからでもあろう。

ここでいう「われわれ」によって、「つとめて忘れ去ろうと」されてきた存在。

そういった「戦争の落とし子」と呼ばれた人々は今でも日本社会で生活している。

私のように、その子ども世代も、さらにその子どもの世代も生まれている。

戦争を、母の代わりに、祖母の代わりに、自分が成り代わって語ることなどできない。

私の想像を超えたものがそこにあるから。

しかし、母のこと、祖母のことを、私がわたしの言葉で語ることはできる。

ニッポン複雑紀行で、黒島トーマス友基さんにインタビューを行ったとき、
そんなことを話し合った(トーマスさんのインタビュー記事はこちら)。

戦争を、戦後社会を、体験者として、代弁者として、語ることなどできない。

でも、自分自身の言葉で語り得ることはある。

それは、"戦後"のこの社会に生まれた誰だって同じだろう。

自分の祖母、祖父にもし話が聞けるのなら。

祖母は、生きている。

祖母は、認知症と身体中に広がった癌と闘い、この世を去った。

祖父は、シベリアに出兵し、若くして癌でなくなった。

祖父は、朝鮮戦争をきっかけに沖縄に駐在し、祖母と出会った。祖母と母に一度も合わずにこの世を去った。

コロナで聞けなかった祖母の話を、
今すぐに聞きに行きたい。

祖母は米軍の家で働いた。沖縄の暑いあの日、米軍の爆弾が飛び交う中で、逃げ回った。親族が殺された。戦後、米軍の家で働いた。ハーバービューで米兵相手に仕事をした。母を育てた。祖父は家を勘当された青年だった。イタリア系でお金のない少年だった祖父は、兵士になった。母の父となったのは、戦争が終わって、アメリカに帰ったあとだった。母を米国に移住させるため、馬券を買った。結婚した妻から、「迷惑をかけないで」と手紙が来た。母は米国にはいかなかった。いけなかった。

僕は友達に言われた。
「あ、じゃあ君のおかあさんは、遊んだ関係で生まれたんだね!」

頭が真っ白になった。

***

戦争を
直接体験した語り手は減っていっている。
でも、戦争の悲惨さを経験した人々の話を
わたしたちはわたしたちの言葉で語ることはできる。

戦争について、今を生きる私たちが、
何を語れるのか、語れないのか。
何を語るのか。

考え続けていきたい。


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