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バベルの塔と歌うたい #7

サーラとヨゼの父親は文字の読める人だった。紗羅がヨゼとともに粘土板の文字と格闘を始めた日、父親は家に帰って来た。紗羅はヨゼが誰か文字を読める人のところに自分達を連れて行ってくれることを期待していたが、父親が帰って来ると状況は一変した。浅黒く日に焼けた彫りの深く整った顔つきをした男性が部屋に入ってくると、母親とヨゼは盛んに彼に訴えかけている。父親らしいその男性は落ち着いているように見えたが、話をするうちに驚きの表情を浮かべ顔が険しくなりやがて紗羅に歩み寄って抱きしめ、何かを話しかけてくる。紗羅にはほとんど理解出来ないが、心から心配されていることだけは感じ取れた。”saarah”, 紗羅がその一言を口にすると、家族全員が紗羅を覆うように抱き合った。

紗羅は身の回りの様々なものを指差して言葉を覚えていこうとした。そしてそのたびに粘土板を指して文字も知ろうとした。最初は誰にも理解されなかったがそのうちサーラが文字を知りたがっているのだと気がついた様子だ。その時紗羅は自分の人差し指を一本立てて、粘土板を指し、二本立ててまた指しと繰り返していった。やがて父親はどこからかまだ柔らかい粘土板を用意して、葦のような植物を削った簡素なペン型の道具を使って文字を刻み始めた。数字の1が手に入った。最初の一歩だった。

それからしばらくは父親は毎日出かけては夕方前に帰って来た。紗羅は家の外に出たいと思い母親について出かけようとするのだが、決して家から出してもらえない。記憶も言葉もなくした娘を外に出すわけにはいかないということか。ヨゼは元気な男の子でしょっちゅう辺りを走り回っている様子だが、家ではいつもサーラの隣に寄り添っている。紗羅は懸命に言葉と文字を覚える日々を続けていた。

毎日父親が粘土板を持って帰ってきてくれるのを楽しみにして、夜は小さな灯りを囲んで家族で文字を覚えていった。ここに来て初めのうちは紗羅は毎晩日にちを数えていたが、ひと月を過ぎた辺りで数えることを止めてしまった。他に覚えることの方が遥かに多く、そのうちどうでも良くなったのだ。それほどここで生きることに、ここで家族と意思の疎通を図ることに没頭していた。理解出来ないと嘆くことや、噛み合わない会話に適当に相槌を打って誤魔化すなんて余裕は今の紗羅にはこれっぽっちもない。ただただ必死に話そうとし、聞こうとし、理解しようと、学ぼうとしていた。それは生きることに他ならなかった。



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