風の谷のナウシカから歌舞伎を深く旅する

令和元年12月、風の谷のナウシカ全7巻が歌舞伎になった。
この歴史的な舞台を通しで観ることが出来たことについて、先ずは心から幸運であったと思う。多くの人が絶賛しているが、私にとってもこの作品は予想を越えて素晴らしかった。
原作漫画全7巻を、全7幕36場で構成されたこの作品は、脚本、演出、役者ともに物語の熱狂的ファンだということがお芝居として素晴らしいとレベルの完成度で初演を迎えられたに違いないと感じた。

白状すると、風の谷のナウシカは映画を漫画にした本は読んでいておおまかな話は知っていたものの、映画は観たことがない。
初日の後にメディアやSNSを賑わす評論や感想に、これはそれだけでは不十分だが映画を借りて観るより、原作をとにかく読んでおかなくては…と即購入し、付け焼き刃な知識を詰め込んで当日を迎えた。
とても楽しみにしていたし楽しむ気満々だったので、ナウシカをそんなによく知らないくせに、いつもはあまり演目を意識しない服装も、空色の色無地にアースカラーの幾何学的な動物柄の帯と小物も青で合わせて、見た目はナウシカファンとして、席に着いた。

さて幕があがり、どうやって始まるのかと待ち構えていると、ストーリーの絵解き幕が現れ口上が始まる。尾上右近の語りのうまさが映える。
昼の部は映画のストーリーを再現しているに近く(私は映画観てないですけど)やや、映画の表現と演出の答え合わせのような空気感を周りに感じながら、舞台では描きにくいところを上手く作り変えていたり、壮大な風景を寄り引きで感じさせる工夫、場面転換の作り方など、舞台装置と黒子を巧みに使っていて極めて歌舞伎的で素晴らしく、しかも全てを使い倒す感じが現代的なのがとても良かった。
役者も皆はまり役で、誰もが主役と言っても良いくらい演技も冴えていた。
ただ、どうしても気になってしまったのは、台詞が歌舞伎的、衣装も歌舞伎的なこと。一緒に行った友人には、そこは仕方ないでしょう、といわれたものの、過去に観た歌舞伎ではこの違和感は味わっていない。スーパー歌舞伎の類を観ないからとも思うのではあるが、漫画で読んでいるものとの比較で観てしまうからと言えば、自分の視野の狭さ故とも言える。

今回の主役、ナウシカを演じた尾上菊之助は、丁度日曜ドラマでもキーパーソンを演じている最中だというのに、少しの迷いもなくナウシカになりきっていた。元はといえば、菊之助がやりたくてナウシカは歌舞伎になったのだから当然ではあるが、加えてクシャナの七之助、クロトワの亀蔵、ユバの松也、ミラルバの巳之助も物凄い迫真の演技!なんというはまり役。全36場の全てに見せ場を作ることで、役者全員が主役級のはたらきをするので見る側はかなり楽しめた。

さて、夜の部は昼の答え合わせから一転。哲学的な問いを突きつけられながら物語を追うようなつくり。演技もさる事ながら台詞回しに心奪われる。原作漫画のままの台詞も多く、ナウシカ以外の作品にも共通する宮崎駿のメッセージが伝わってくる。奪い合うのではなく、互いの立場に立ち慈しみ合い心を開き合わなければ永遠に平穏は訪れない。そして、人が戦いを通して破壊しあうことが招く毒や腐敗…。それは人の生きるスピード感では悪でしかないが、自然は自然の力でゆっくりと自浄のサイクルを回しているのだ、と。歌舞伎ではあまり観ないプロジェクションを上手く使いながらの凄まじい見せ場に何度も涙を誘われた。

ナウシカはファンタジーだ。だが、歌舞伎になったことで重力が加わり、テーマの壮大さがより哲学的にになり、未来に何を残せるかを問いかけてくる。このテーマは普遍でありながらも繰り返し人が向き合って来たこと。今で言えばSDGs、地球温暖化問題、原発問題、マグロ問題、少子高齢化社会など、数々の現代社会の課題と重なる。

歌舞伎についてはこれまで18年間見てきた感覚でしかわからないけれど、歌舞伎も哲学的で壮大なテーマを取り上げ、芸術的に表現することで観る人に多角的に考えさせものであることは確かだ。
今や歌舞伎十八番の義経千本桜の狐の親子や鳴神の龍神も初演の時は非現実的なファンタジーに感じられたのではないか。そしてナウシカの守り神のようなキツネリスのテトも王蟲もファンタジーだが、親子狐や龍神と同じく人の心の中には存在しているのではないか。
概念的なものをアニメーションやCGで表すことはやれそうだが、それを舞台で表現するというのは並大抵なことではないと思う。

ところで、Wikipedia によると歌舞伎の起源は派手な衣装を楽しんだり逸脱した行動に走ることを指す「傾く(かぶく)」様式を取り入れた踊りが起源だそうで、江戸初頭にはじまったが、今のような歌舞伎の基礎ができたのが元禄時代というのが定説で享保に入って初めて屋根のある小屋で花道も作られた…これにより今日の演出の数々が可能になる。

長い歴史の間に見る側の情報量や生活圏は格段に広がった。その間に人々の格差は見た目にはなくなり、人の尊厳は守られて当然であるというのが常識となった。今、歌舞伎で心中ものを観れば、なぜその町から逃げ出さないのか?とジリジリしまうが、当時は半径10キロほどの中で一生を終える人がほとんどだったことを思えば違った感覚で見ることができる。菅原伝授手習鏡で幼子を犠牲にする親の辛さにとどうしようもない虚しさを感じる。今の子どもは受験や習いごとで別の意味で大変だが、ある意味幸せなのかもしれないと思う。
お上からの制約で表現上で実話は時代や実名を仮のものに替えて上演するようになった演目は普遍の物語として歌舞伎を通して古き日本で人々がどのように暮らしていたのか、どんな感覚を抱いていたのかを、歌舞伎を通して体験出来ているとも思うのだ。なんだかタイムマシンみたいだ。

ナウシカは映画が作られた35年前よりもきっと今の方が時代に呼応して深刻な物語として感じられるはず。あの頃はまだバブルも始まる前で、そこから10年以上経ってからインターネットが躍進し、表現も情報収集の自由度も高まった一方で社会の理不尽を目の当たりにすることも増え、遣る瀬無い気持ちになることも多くなった。
そんな時代に、遣る瀬無い気持ちを持つ多くの人のなかでただ1人敵対する人も王蟲も巨神兵も本質的な思いが同じであることを信じる、一途なナウシカの見せる力に光を見た気がした。
令和の始まりの年に、風の谷のナウシカの歌舞伎が初演されたことはタイミングといい、その内容といい歴史に残るのは間違いないだろう。そして私が気になってしまった台詞や衣装は時間とともに歌舞伎での描かれ方は味わいとなって行くのだろう。歌舞伎とは伝承されながら磨き上げられていくもの。100年後にナウシカ歌舞伎の舞台を観る人は昭和に制作された映画や歌舞伎になった令和の時代にタイムスリップするのかと想像するとそれだけでわくわくする。
ナウシカの素晴らしさは何だったのかを掘り下げるうちに歌舞伎の素晴らしさを改めて知ることとなろうとは思わなかったが、それくらい奥深い作品だった。歌舞伎が長く続いている理由が少しわかった気がした。

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