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実験2日目「TSって何だ?」

「もしも自分が異性に産まれていたなら?」
と、考えたことはあるだろうか?

自分には妹が居る。

昨年結婚したらしいが、結婚相手が誰かは知らない。
おそらく、苗字も変わっている事だろう。

妹は、一浪して大学進学をした、自分はその費用を稼ぐため就職することを強いられた。本当は自分も大学への編入を希望していたが、家に逆らう勇気のないゴミくずのような頃の自分は、就職の道を選ばざるを得ないと勝手に思っていた。

「兄なんだから」「男なんだから」と、産まれてからずっと、散々言われ続けた。そして当然のように、自分は男に生まれたことを酷く後悔していた。
家業だとか墓だとかか、直系長男というだけであらゆる重責を担わせられる。

そして、反骨するだけの決断に至った。
自分を動かした「怒り」は、自分に自由を与えてくれた。

もしも自分が女に産まれていたなら、こんな苦痛と、重圧に苛まれることはなかったはずだ!

そう、長い間思っていた。

そんな考えが変わったのは、20歳を過ぎて初めてできた彼女と付き合ってからだ。まぁ、何と言うか…。女の苦労というやつはタチが悪い。
殴り合いで解決しない問題は嫌いだ。自分の性格には合わない。

自分だけが不幸だと思っていた時期もあったが、月並みなことを言うなら「人それぞれの苦労がある」と、そんな当たり前なことを今は認められるようになった。

なんやかんやあったが、今では「来世もどうか男で産まれたい」と、思っている。できれば、もう少し顔立ちを良く、それと…できれば、今度は優しくて、少しばかり甘えても許してくれる弟想いな姉が欲しい。家も特に家業とか無ければ最高だ。自分の好きなことに口を出さない親ってのは…期待しすぎだろうな。

VRChatの世界では、人は在りたい姿に変身することができる。
男に成りたい女、女に成りたい男……なんていうのはどちらかと言えば多数派に属するくらい多い。
理由は様々だが、人によっては産まれながらの自己認識と身体の性的特徴が異なるというシリアスな悩みを抱えている場合もある。
そんな方々も、この世界では簡単に在りたい姿に成れるし、在りたい振る舞いができる。
自由に自分を選択できる。
ここは、自由だ。
それが、不自由な家族ごっこをしていた自分には、尊い。

しかし、自分は自身の肉体という器にこの世界でも縛られている。

これは「錨」だ。

流されないため、自分を留めるため、見失わないための。
自分を、自分たらしめるもの。

しかし今、自分は広大なネットの海を漂流している。

そして、見知らぬ島に座礁したらしい。

この自分の奇妙な1週間に注がれる熱い視線は、この島の住民達からのものだったのかもしれない。

2020/06/29 13:00 <勤務中>

「あああっ!?」
自分の情けない悲鳴に、隣の同僚が目を細めてゆっくりと振り返った。
「このタイミングで、元上司にTwitterフォローされた……。」
震える声で同僚にそう伝えた。
乾いた笑いを1つして午後の業務に勤しむ同僚と、深いため息を1つして天を仰ぐ自分が居た。

現在、自分は滋賀県の某所で、巨大ロボットを開発する秘密結社でハードウェア開発班として日々設計業務等をこなして生活している。

……念のために言うが、これは現実の話である。

読者の皆様には是非
ネットが普及して人々がVR機器で仮想現実で可愛いオジサンやイケメンのお姉さんとなって生き生きと暮らし!
本物の巨大ロボットが秘密裏に開発されている!
という、そんな令和の時代を生きていることを再認識していただきたい。
我々は既に過去のSFで描かれた世界に住んでいるのだ。

自分の前職はバーテンダーである。
西川口という、風俗街としては寂れつつあり、新興のチャイナタウンとしては賑わっている首都圏住みたくない街ランキング3位という、自分の第二の故郷と呼べる場所がある。
その街の数少ないオーセンティック寄りなBARで、自分は丸氷をひたすら削ったり、フィッシュアンドチップスを作ったり、おススメのスコッチを出したりしていた。
カクテルの腕前は……イマイチで、会話のセンスもない。
そして酒に決して強くもない、およそバーテンダーには不向きな奴だった。

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実家を飛び出して、職無し、家無し、とりあえず東京に来ればなんとかなると、思っていた自分が西川口に流れ着いて、職探しをしていたときに偶然見つけたBARでマスターと出会い、雇ってくれた。

今思えば、自分のような奴を雇ってくれたマスターの度胸は凄まじいなと思わざるを得ないし、心から感謝している。
「3年だ、この3年でお前を他所でも働けるような奴にしてやる。それから先は自分で考えるんだ。」
それからまぁ本当に、色々なことを学ばせて貰った。人生の大切なことは、風俗街とチャイナタウンのネオンが輝く京浜東北線沿いのこの街で得た。
この街で揉まれて、自分を見つめなおしたり、人生をやり直すことができたからこそ、今の自分がある。
自分は、実家の呪縛から逃れ、十分に変わることができた。
本当に、たくさんの人に支えられた。感謝しきれない程に。

現在の巨大ロボット開発の仕事で東京に行く機会があれば、必ず西川口に行く。最近行ったときはマスターは店には居なかったが、代わりに元上司が居た。ハツラツとした、ハッキリと物を言う感じでありながら、繊細で、努力家な女性バーテンダーである。

自分の近況について話したあと、ネットと今どきの若者の話を振られた。
「最近の若い子にとっては、ネットの出来事も現実と同じ出来事なんだという考えが当たり前になったみたいね。VRとかも流行っちゃってさぁ~」
入店初日にiPhoneとスマホの違いを元上司に説明したことを思い出して少し笑ってしまったが、テクノロジー音痴な元上司の言いたいことは分かる。

ネットの出来事を「ゲーム」や「仮想」「非現実」という大枠で捉えている人は現代でも少なくはない。
ネットでできた友達というのも、リアルでできた友達と出会った場所が違うだけで、友情は変わらないものだということを、ここにアクセスしている人なら理解できると思うが、日本の人口で考えれば良くても半分しか理解できる人は居ないだろう。

最近の趣味の話として、自分はVRChatについて話した。
まるで、SF小説の冒頭でも聞かされているかのような反応をされたが
「自分の在りたい姿で居られて、生き生きしている人も見ることができるし、女の子になっているオジサンが意外と可愛い。まぁ、私は向こうでも男ですけどね」
と、言ってリアルエールを飲み干した。

さぁ、そんな会話をした元上司からなんと、今更、このタイミングでTwitterをフォローされた!

自分の在りたい姿!?男!?

無いよ!
絶賛ロスト中だよ!!
悪い黒猫のせいで可愛いオジサンになってしまったよ!!!

元上司の「そんな人も居るんだねぇ」と、言っていた顔が浮かんだ。

2020/06/29 22:30 <実験再開>

仕事を終えて、シャワーを浴び、夕食を済ませる。
食事の際に栄養に気を遣うならば、何が足りないかを考えるだろう。
己を満たすにはどうするかを心に問う。
食は三大欲求の1つだ。そしてそれを満たす形として、生命維持に必要な最低限のものを摂取したり、より上質なものを求めたり、偏食したり、コスパを重視するなど、様々なパターンがあると思う。

「足りない……」

夕飯を済ませて、VRゴーグルを被る。
「サイバーパンクが足りない」
腹は膨れても心を満たすには足りなかった。
「よし、ずっと気になっていたあそこに行くか…」
上質なサイバーパンク成分を得られそうな場所に心当たりがあった。

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無造作に建てられた配管丸出しのビル!
怪しい日本語やその他言語の混じる眩しいネオン!
空飛ぶ車と降りしきる雨!
これだ、これぞサイバーパンクの街だよ!!!

VRChatで初めて行くワールドというのはやはりワクワクさせてくれる。
特にサイバーパンク成分を補給できる場所は格別だ。
ふと見た街角だけで、それっぽい映画のワンシーンを妄想できるぐらいだ。

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街の色合いを操作できるという神がかった新設設計のワールドで、自分好みな青の強い風合いにした。
俺のテンションはグッと上がったが、すぐにそれも緩やかに落ち着いてしまった。

「これで、俺が男(元の体)だったらな……」

自分がこの街に佇む姿を撮影するには、この非人道的で凶悪な実験を終えなくてはならない。
それを思うと、これから残り5日が途方もなく長く感じた。
まるで、去勢された猫のような虚無の表情になっていった。

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VRChatにログインして数分で人が集まってきた。
この公開実験の間は、基本的に知り合いならワールド内に来られるようにインスタンスの設定をしていた。
人が人を呼び、いつの間にかワールドには大勢が集まり、裏路地にしては不自然な人混みができていた。

ここぞとばかりに量産型の自分を身にまとった人達が、この最高にイカしたワールドで画になるポーズをしていると、どうにも歯痒い気持ちになった。
姿は自分であっても、やはりあれは自分ではないのだ。

「早く元に戻りたい……。」

この一週間で最も多く自分が口にした言葉を、呟いた。

「どうして、戻りたいんですか?」
そしてこれは、最も多く期間中に聞かれた言葉だった。

自分にとっての憧れは、カッコイイ漢だ。
タフで、それでいて優しい。ハードボイルドな漢。

可愛い身なりや動きというのは、誰かがしているのを見て楽しむものであって、決して自分がするものではない。
そう、思っていた。

「早く元に戻りたい……」

また、そう自分が呟く。
しかし、周りの誰もがその言葉を信じない。
何故なら、そう呟く自分は腰をくねらせ、笑顔を振りまき、可愛いムーブの練習に勤しんでいたからだ。

これはあくまでもこの非人道的実験の元凶であるノラネコPの
「自分の思う可愛いムーブをして過ごす」
という課題をこなすための行動であり、今までやったことのない動きに慣れるためであり、自分が見ても可愛いと認められるような動きになるための訓練である!

……と、必要に駆られてやむなくやっていると説明しても、信じる人は殆ど居ない。

どちらかと言えば
「このまま、ますきゃっととしてずっと過ごして欲しい」
という願望を投げつけられることが多かった。

この実験が終わってなおも毎日のように
「ますきゃっとに成らないのか?」
「本当は女の子の姿に成りたいんだろう?」
と、願望ベースで言われる。
まぁ、こういう煽りやからかい、若しくは自分が面白ことを言っているつもりのお寒い奴が掃いて捨てるほど居る。

一方で、自分が興味深いなと思ったタイプの見学者が居る。

彼らは、リアル男性だったはずのDJ-09という自分の存在が、可愛らしいバーチャル美少女のますきゃっとに突如変貌を遂げ困惑している様をじっと観察し、自分の紡ぐ言葉に耳を傾け、自分の心の揺れ動きを感じ取ろうとしていた。
彼らは「TS」をこよなく愛する者達。
彼らが、自己喪失して仮想世界を漂う自分に、熱い視線を向けていた。

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TransSexual Fiction
最後のFはファンタジーとする場合もあるらしいが、要するに性転換に伴う性差による心境の変化を描いた物語のことで、その略称がTSだったりTSFである。
神話や古典でも扱われる歴史のある題材で、日本の漫画でも度々扱われるものだ。
自分は全くTSモノには詳しくないのだが、それでも流石に『らんま1/2』ぐらいは知っている。
そう、意外とメジャーな性癖らしい。

で、このTSというものにはFが付いている。
そう、突然手術も無しにポンと性別も見た目も変わってしまうというのは創作の世界だけの話であって、現実にはあり得ないことなのだ。

しかし、この仮想の世界で、リアルに限りなく近い男が、こんなビフォーアフターを遂げてしまった。
創作の世界でのみ満たされてきたTSモノ愛好家達が、この実験の噂を聞きつけて、飢えた獣のように、しかし貴重なリアルTSとして慎重に、自分のこのますきゃっと義体実験を見に集まっていた。

「早く元の体に戻りたい」

自分のこの言葉を聞くたびに、彼らは
「TSモノの定番のセリフだ…!」
と、感動していたらしい。

どうにも、TSモノというのはあくまでも「元に戻りたい」という抗う姿や葛藤があって初めて良い作品になるらしい。
つまり、進んで女装したり女の子になりたくてなっているというのはちょっと違うと感じるのが硬派なTSモノ好き……らしい。

VRChatの世界では自分で姿を選ぶことができるので、女の子の姿に成っている時点でそれはあくまでも女装や女性という在り方になるのだ。

しかし、自分は事情があって1週間だけ誰もが可愛いと認めるような愛くるしい美少女の姿になっている。
つまり、外的要因で女性になってしまっているのだ。
VRChat広しと言えど、半年以上自分のリアルアバターをメインに使っている奴は自分ぐらいで、仮想世界でも男を貫いてきた自分が突然そんなことになっている。
男性を強く強調してきた分だけ、この変化の激しさはすさまじいものだった。
そのせいか、TS界隈でこの実験が早くも話題になってしまったらしい。


さて、(中身はともかく)月とかかわりのある美少女の(男性という自己喪失の)ピンチには、仮面の男が颯爽と駆けつける……ということは日本の誇るオタク文化の中では定番であると、世界レベルで知られていることだろう。
その夜、彼は現れた。

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「やぁやぁ、ずいぶん可愛くなってしまったねDJ君」
深紅のタキシードに独特なマスクで顔を隠した長身の男が、高笑いをしながら現れた。
彼は、主任と呼ばれているVRChatでは有名な変態である。
高田純次を彷彿とさせるような絶妙な加減のハラスメントに定評がある…?と、このご時世に言ってもいいのだろうか、時にはブロックされて泣く夜もあるのだろうか、我が道を往く変態という名の紳士だ。

「なぁ、DJ君。お願いがあるんだ」

嫌な予感しかしない。

「僕は男だよ……って、言ってくれないかな!頼むっ!」

流石変態、性癖のデパート、TSモノも押さえている。

こんな変態の言うことをまともに取り合う必要はどこにもない。
しかし、ここで恥ずかしがるような女々しい行為をすれば、男の前で恥ずかしがる美少女の姿を晒してしまう。売られた喧嘩を買う方が、ずっといつもの自分らしい。

……よし。

意を決して、凄みを利かせ、力強く言い放った。

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「俺は……漢だ!」

目の前の仮面の男は、ひと呼吸置いて嬉しそうにのけ反った。
ギャラリーの何人かも、なんかこう、若干気持ち悪いくらい喜んでいる奴がいた。
全くもって逆効果だ、コイツら喜んでいる。

ギャラリーの一人が、笑いを堪えるように言う。

「DJさん……それ、TSモノの鉄板のセリフです……。ご馳走様です。」

騙して悪いが……という奴なのだろうか、この変態仮面、策士であった。

その後、自分のあらゆる行動に対して「それ、TSモノで見た。」と、四方から言われ続けるのだが、なかなかそれに苦言を言えないでいた。
というのも、そう言いたくなる気持ちは、さながら現実世界の技術革新を見る度に「SFで語られていたアレだ!」と、興奮する自分と何ら変わらないのだろうと思うと、どうにも彼らの好きなものを否定する気にはなれなかった。

やれやれ…。

このVRChat、そもそもオタクだらけで人付き合いやコミュニケーションがうまい人間なんてほとんど居ない。しかし、自分の好きなものを好きと言えてそれを表現する強さや、在り方の自由は、現実で愛想笑いをしていることよりずっと素晴らしいと自分は思っている。

需要っていうのは分からないな…。

だが、彼らの需要のためにやっている訳ではない。
この実験は、あくまでノラネコPと自分の間での約束ごとだ。

自分のこの動きに、まだ「彼女」に感じるような美しさや可愛らしさ、魅力というものを感じられない。
課題である「自分の思う可愛いムーブ」には程遠い。
日付が変わり、夜も更けてその日は体を動かしてクタクタになっていた。

2020/06/30 02:30 <ログアウト>

用を足してから、横になって、ふと思う。
ますきゃっとになってしまった場合、トイレはどうしたらいいんだ?
男性トイレに行くのは確実に騒ぎになる。
そもそも、のらきゃっと型のアンドロイドはトイレに行くのか……?
あと、この服はどうやって脱ぐんだろう?

そんなことを考えていたら、いつの間にか特に何も夢も見ずに深い眠りについていた。

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次回、実験3日目「可愛いはつらいよ」

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